2015年07月19日 (日) 05:25
文学的に凄いからといって、面白いとは限りませんし、又、文学的表現が、エンタメ表現より偉いという訳でもない。
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「文学を言葉による表現の探求とし、エンタメを観客の興味を惹きつける力とした時、エンタメ的な文学表現はあるし、文学的なエンタメ表現もある」
「言語表現の成熟期が過ぎ、もはや退化が始まったかもしれない現在、絵画の写実主義が写真によって駆逐されたのと似た景色が、映画やコミックの出現によって文学にも広がっている。」
「ラノベの軽快な描写は、写真や挿絵があるから重厚な描写を必要としてませんよ?とも取れる。 文学を表現の探求とすると、ラノベにおける表現の簡略化は表現の退化って言ってもいいかもしれないが、エンタメの為の表現として、簡略化を行っているともいえる。」
「ラノベ的文学論があるとすれば、簡略化における美学だろう。だとすれば、必要な説明と不要な説明に、作者は確信的でなければならない。
物語構造もそうだ。実体は複雑だとしても、読者にはシンプルに見えなければならない。読者の考えるストレスをコントロール出来なければならないからだ。」
「現代的な学習方法では、実にシンプルな説明が繰り返されるが、代わりに多角的に光源を使い、被写体がもたらす様々な投影を図ってゆく。 一つのやり方を深く洞察しないが、多様な浅い洞察を幾つも用意することで、ある種の直感的理解につなげてゆく。
結果としての答えは一緒でも、その過程がまったく違う。 乗り越えられない壁が一つ二つ程度なら、そこでリタイヤしなくて済む・・・
――――迂回可能になるのだ。
わからない部分の周辺を埋める事で、わからないモノの輪郭をつかむ方法でもある。 」
「構造の複雑さや重層性で凝縮してゆく従来型文学のカウンターとして、構造の簡略さと軽快さで展開するラノベ型文学の良さってのは、読者にわかりやすく提示する、エンタメ的文学だと思うのよ。」
「「こんなの誰でも書けるだろ?」って批判もあるけど、エンタメ的文学ってのは、本当は難しい事でも難しく感じさせない技術みたいなもんだからね。 誰にでも書けるように見えるだけかもしれない訳。というか、実際はそうよ。
誰にでも書けると言ってる人ほど書けないから。 なんというかね、女子高生やOLやおばさま方の、あのくだらない延々と続くおしゃべりだって、才能よ。
無口な人からすれば、なんであんなにしゃべれる訳って思っているからさ。 批判する人ってのは、大抵しゃべれない人なのよ。」
つまり、なんなの?
えっとね・・・つまりさ、アレだよ、アレ。つまり・・・
――――何気ないおしゃべりにだって、技術が使われてるって事。
※観客の興味を惹きつける技術『エンターテイメント』とは、『文学(言葉による表現探求)』における、根源的技術とも言える。
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なんだろう・・・例えばさ、ジブリのパヤオ作品が顕著なんだけど、、パヤオ作品って、ストーリーとかキャラクターとかが面白い訳じゃないんだよ、、あくまで表現で勝負している。
つまり、アニメーションという表現で、おおよそ120分の間、観客の興味をどう惹かせ続けるか?という事で、勝負している。
ジブリの主人公とかの、女の子のしぐさとか表情とかそーいうのを見ていて楽しいでしょ? 目を惹く動きをしてるんだよアレ。 で、いつの間にかストーリーにも自然と没入してる。 キャラクター設定がいいからじゃないのよ? そのキャラ設定を活かすアニメーションをしているの。
舞台設定もそう。 流れる風とか、建物の古ぼけた感じとか、動物のちょっとした出演とか、光の陰影とか、そういったアニメーションが魅力的だから、世界が美しくみえる。
ジブリアニメの魅力は、アニメーションそのものにある。 な・の・で、その『アニメーション〈力〉』を活かす、ストーリー・世界観・キャラクターを探す必要がある訳です。
これを小説で言うなら、『語り口』を軸にして、単行本1冊に詰められた約10万文字を、どのように読者に感情移入させるか? みたいな事になる。
己の語り口を活かす、ストーリー・世界観・キャラクターを、作者は考えなければならない。つまり己の個性というか、好きな事と嫌いな事をさ、理解してゆく訳、なんというか自分なりの、
――――美意識って奴。
エンタメ的文学でも、文学的エンタメでも同じ事なんだよ、それは。
【関連活動報告】
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型は大事だと思うけど、型でしかないから