老人と子供
2016年10月30日 (日) 19:27
  厳密には、『自我肥大』って言葉は定義されていないと思うけど、『己を絶対とする事で支配的に振る舞う事』だと、個人的に定義する。 つまり『我儘《わがまま》』または『ご都合主義的な解釈』。
 別にこれを一概に悪と言うつもりはありません。 というのは、自立心や強固な意志というのは、こうした傲慢さを己の内側に対して適応した時に確立するからです。 己の本能的な衝動に対し、支配的に振る舞える意志の強さや忍耐力というのは(≒克己心)、謙虚で穏やかな協調性というより、傲慢で反骨的な意志によってなされる。それは激情に近いのだと思う。
 肉体に対して従順であるか、意志に対して従順であるか、肉体に対して我儘であるか、意志に対して我儘であるか……。 よく物語では我儘な人というのは、ダメな人、という風に描かれやすいですが、強烈な意志をもって目的を遂行する人も、我儘で、ご都合的な人である事も、忘れてはならない視点だと思う。 持っている欲望の形が違えば、行動様式も違ってくる……その欲望をどの様に象《かたど》るか?っていうのは、描く上でとても重要なことだと思うので。

 ちなみに心理用語である『自我拡大』は、自分が所属する組織や、共感する他者に対して、自己投影する事であり、人によっては病的に捉える人もいますが、これは人が持っている社会性という心理機能でもあるので一概に病気とは言えない。が、行き過ぎれば病的な『依存』といった症状になってゆきます。


 この活動報告を書こうと思ったのは、最近、やたら活発になっている団塊世代の極左活動家に呆れ果てたから。 と同時に、団塊リベラルというのは、非常に興味深い題材だとも思う。 日本に蔓延する『社会病理』の幾つかには、彼らが掲げた理想主義が根幹としてあり、その体現者としても彼らは存在する。

 その思想の裏には戦後6年半に渡る占領期間(1945/8/14から1952/4/28)
に行われたGHQ統治の影響(プレスコード/教科書検閲/焚書)が、色濃くあるのだと思うのだけど、しかし、それが効果的だったのは、戦後直後に生まれた日本人の多くが、
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占領軍への『ルサンチマン(強者に対する憎悪)』と共に、敗戦した日本を『スケープゴート(弱者への憎悪)』とし、自《みずか》らを『コスモポリタン(世界主義者)』とすることで、敗戦国民という地位からの脱却を願った……
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 から、だと思う。つまり彼らの言う「地球市民だ!」というのは、脱日本人を目指す姿勢そのものだという事。 そして、国家という枠組みを超える仕掛けにおいて、合衆国が大英帝国から独立した手法である『リベラリズム(自由主義)』があり、その先の『ネオリベ』や『グローバル主義』へと繋がってゆく。

 ここで思うのは、敗戦というものは、たとえ故郷を失わなくとも、精神的な流民になりえるという事。
 団塊リベラルの精神構造において、『棄国《きこく》』がある。 棄国というのは『棄民《きみん》』に対する造語で、民が国家を捨てることです。 『売国』の穏やかな言い方でもありますし、『多文化共生』や『地球市民』も基本的にこの『棄国』の構造がある。
 ただこの棄国というのは、流民になるという以上に革命家になる部分が大きい。 国を捨てて彷徨うのではなく、国をひっくり返す理由として祖国の否定を行う。つまり彼らにとって……
 ――『祖国という悪』を正す為の、正義が『売国』なのです。

 いわゆる『反日・日本人』の精神構造は、基本的にこれであり、その反日行為とは、彼らが信じる日本人の上位的存在、つまり『コスモポリタン(世界主義者)』に生まれ変わる為のイニシエーション(成員手続き)である。 ただし、『日本人(敗戦国民)』であった原罪は残り続ける為、自己肯定の為、執拗に日本的な事を攻撃し続けるのだと思う。
 こうした彼らの神は、戦後秩序体制であり、ヨーロッパ哲学であり、リベラリズムである。 彼らは、そうした神の民である西欧の人々に認められたいという承認欲求の元に行動しているに過ぎない。 この構造は歪な一神教と同じで、反日日本人は、反日をすることで免罪と称賛を乞う。

 こうした戦争の傷跡は、敗戦国日本だけの話ではなく、勝者である欧米にも存在する。 例えば、アメリカンニューシネマにおける保守主義への反発、露骨な反政府的《アナキズム》主張はいうまでもなく、そこからラブ&ピースといった『ヒッピー文化』を展開したのは、そうした戦後世代だ。 最近ノーベル文学賞をとった『ボブ・ディラン』は、戦後生まれではないが、戦時生まれであり、彼のプロテストソング《抗議歌》だって、そうした時代の空気の延長にある。 
 EUが当初の経済同盟から、統一通貨を含めた文化的統合にまで拡大したのは、もちろん、日米経済に対抗する為でもあるけれど、時代における文化的な背景があったからだ。 
 そして現在、……多文化共生といった理想を現実に体現しようとして、逆に、現実に飲み込まれてゆく現象が起きている。

 ノーベル文学賞はノーベル平和賞と同じく非常に政治的なショウで、基本的にはヨーロッパ秩序に寄与する為に利用されるし、更にいうなら第二次大戦の戦後秩序の為という事になる。
 ボブ・ディランの受賞は、そうした体制側からの意図が透けて見える。


 グローリズムを考える時、共産主義と対比してみるとわかりやすい。 労働者階級を主軸として展開した世界統一思想と、資本家階級を主軸とした世界統一思想。
 そして、ここにおける具体的なモデルケースとして中共があります。 中華人民共和国は、共産主義を標榜していますが、共産党の独裁である事により、共産党員への資本の集中が行われます。 結果、共産主義という大義名分によって人々から搾取するシステムとなっている。 これは形を変えた奴隷制度であり、極端な資本家主義と同じです。
 もう一つのモデルケースがEUとなります。 初めは経済同盟から出発し、最終的には、統一通貨および国境を取り外すところまで展開されたEUは、国家の主権を絶妙に取り上げました。 EUの支配者はユーロを担保する事でヨーロッパ経済を支配するドイツ資本であり、他国はドイツへ労働者を提供するだけの構造となります。
 皮肉なことにこの2つは、偉大なるモデルが存在しています。それがアメリカ合衆国です。 合衆する国であるアメリカは、ある意味、中共やEUの完成形でもあるでしょう。

 


 話を戻そう。 理想主義者だけでなく、信念を持つ人間は必ず『自我肥大』が起きる。 なぜなら、世界を変えようと振る舞うからです。
 これが外に向かうか内に向かうかで、意味はまったく変わりますが、世界を変えようとする自体はそうです。 気を付けなければならないのは、ドン・キホーテのように誇大妄想といった狂気によって行動する可能性があるという事。
 ――つまり、ある種の『白痴』だ。


【関連活動報告】
サブカルチャーとしての文学(某割烹でのとある割烹の話)
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