2017年04月23日 (日) 15:01
◆始めに
いろいろな創作論が溢れているけれど、読み手の立場にたった創作論がないと思ったのと、読み手を馬鹿にする作家への不満が、このエッセイを書く動機であります。
読者の立場から言うと、作品の面白い詰まらないというのは、"究極的には"、作品と読者の相性の問題でしかないんです。 そこにおいて、いわゆる『読まれないと嘆いている作家』の多くが、読者のことを意識しなさすぎだと思います。
が、この『読者を意識する』がときに『読者に媚びる』と誤解されているようで、これが個人的に甚だ不満でもありました。 なので、それについて語りたいと思います。
◆読者から見た創作論
まず、作品を創作する事そのものを、難しく考えている人が多いと思う。
ですが、どう考えたって、『書きたいから書く』でいいはずです。 『書きたくないのに書く』必要があるのでしょうか?
そして、『書きたい』の中心には、作家(エゴ)のイメージ(イズム)があるのであって、つまり、書くことに必要なのは、そうしたイメージをする為の、『作家の思考する力(エゴイズムな衝動)』なんだと思う。 ある意味、書けないという状況は、イメージできない、思考できない、又は、ある先入観や固定観念に囚われている状況だと思う。
で、この『書きたいから書く』の、その先にあるのが、『読者に伝える』というハードルだと思う。
でも、『よくある創作論(小説論)』って、『演出論』ですらない単なる『文章論』で、「うまい文章とはなんぞや」みたいな視点が割と多く、酷いものだと「正しい文章を書きましょう」なんてものすらある。
しかし、多くの読者はうまい文章とか殆ど気にしていないと思う。 文章で気にするとしたら、それは「読みやすい(分かりやすい)か?」という点が殆どです。
そもそも、うまい文章かなんて判定するには、いわゆる教養が必要で、つまり、素晴らしいといわれる文章をたくさん読む必要があります。 それも小説だけでなくて、詩や詞、唐詩や短歌や俳句なんてのは基本中の基本だったりする。
で、そこまで少しでもやった人ならわかると思うのだけど、結局の所……
「文章に上手い下手はあるかもしれないけど、そんな事よりも伝わるか伝わらないかの方がよほど大事だ」 ってことに気づくと思う。
ここから個人的に思う創作論は、2つ。
①書きたいことを、構想する。
②伝わるように、語り、推敲する。
これだけ。
つまり、自分の為の内容を、相手に伝わるように語る。 基本は、これだけだと思う。 これに色々と付随しているだけだと思う。
◆①に関して
『書きたい』という衝動を大事にしているか?(自分への期待/エゴイズム)
『書きたい』の起点に自覚的か?(始まりのイメージ/テーマ)
『書きたい』を具体的に探索する(テーマの展開/物語構造のマッピング)
構想段階では、むしろ読者の存在をあまり意識しないで、ワガママになるのが基本だと思います。 自分が楽しむ為だけに、構想したほうが自然だと思うし、作家の気分がのっているほど、イマジネーションが膨らみやすいからです。
又、楽しい雰囲気のある場所にいるだけで、楽しい気分になれるように、物語世界にもテンションがあって、良いテンションを保っている作品は、その雰囲気だけで人を寄せ付ける力があります。
◆②に関して
『伝える(読ませる)』為の工夫(他者への意識、演出)
『どういった読者の為に書いているのか?』(招くべき客のイメージ)
『そうした読者の目線』で、語りかける(案内人の物腰)
『独善的』にならないようにする(答えの押し付けでなく、解釈させる)
『伝わる分かりやすい文章』(迷子にさせない意図のある演出)
この問題は、究極的には推敲の問題です。
『書きたい』というのは単なる自己表現ですが、『伝える』というのは相手の為にあります。
いわゆる『創作の技術』を『演出』などといいますが、これは『伝える為の技術』なんです。
気をつけなければならないのは、『伝える為の技術』というのは『伝えたいもの』がなければ無意味だという事。 『書きたい』と『伝えたい』をつなげるものが、演出技法なんです。
どういった読者の為に書いているのか?
幼児に難しい哲学を語っても伝わらないように、相手の目線(レベル)に合わせなければ、どのような内容もきちんと伝わらないです。 そして、相手の目線に合わせる事はコミュニーケーション(通じ合い)であって、媚びることではないです。
自分の考えに、相手が耳を傾けるように仕向けるには、相手の興味を引くような工夫が必要です。 そうした工夫をエンターテイメントといいます。
小説におけるエンターテイメントとは、
基本的には、文脈にリズムを作り、言葉の質感を音階として、メロディのように語ることだと思います。
軽やかに楽しく語れば、相手はその音を聞いているだけで、心地よくなります。 そして、言葉の質感において、艶っぽいニュアンスがあるなら、聞き手に性的刺激を与えるでしょうし、硬質で美しいニュアンスがあるなら、聞き手を崇高な気持ちにさせるかもしれません。
また、文章を視覚的に魅せることも重要だと思います。
漢字ばかりつかえば、硬く難しい印象を相手に与えますし、ひながらばかりつかえば柔らかく単調な印象を相手に与えます。
タイトルや段落や行間をつかい、『章』『節』『項』として見て構成が感じられれば、難解な物語構造だとしても、整理しやすくなるでしょう。
セリフや語句の余韻を視覚的に見せる『間』を作るのも、よくある『見せる文章』です。
こうした読者を意識した『語りかけ』や『文体表現』は、相手に耳を傾けさせるための一歩だと思います。
相手が耳を傾けてくれたなら、しめたもの、内容の提示に入れます。 ですが、注意すべきは、物事を独善的に見ていないか?という問題です。
独善的な語りが嫌われるのは、それが自分勝手だからです。 自分勝手がダメなのは、相手のことを意識していないからです。 読者を意識していない作品は、読者を傷つけやすい作品になりやすいです。
作家の独善性は、単なる自己表現なのではなくて、読者を傷つける可能性がある事を、作家は意識する必要があります。
ただし、この問題は作家としての気質に関係してくるので、解決は容易ではないと思います。
◆小説において『媚びる』とは
私が思うに、それは、『書きたくないのに、書く』これが、『媚びる』だと思います。
自分を卑下し、自己否定するような世界であるのに、己が軽蔑する人々が喜ぶために書く。 これが『媚びる』だと思います。
端的に言えば、読者への愛がない作品は、媚びている作品だと思います。
媚びた作品には『問い』はなく、その人達の求めに応じた答えだけがあります。 相手に理解を求めるのは、愛があるからで、媚びた作品において、理解を求めることはありません。
『書きたい』も『伝える』もない、それが『媚びる』だと思います。
◆最後に
結局の所、『相手に伝える工夫』この問題によって、読まれるか読まれないかが決定されると思います。 それは単に表現の問題だけでなく、ジャンルの選択や、読者が興味をもっている要素を、どのように自分の作品として取り込んでゆくかという問題になるかと思います。
で、そこにおいて、おそらくポイントになると思われるのは、自己表現におけるこだわりをできる限り凝縮し、それ以外のエゴイズムをどれくらい削れるか、という事だと思います。
なぜなら、様々なこだわりがありすぎる人ほど、読者へ工夫をする余白が残っていないからです。 そういう人は、いわば、自分の為だけの表現で一杯で、他人のための表現、つまり伝える為の表現まで広げる事ができない。
『書きたい(自己表現)』と『伝えたい(気づかい)』の狭間に、作品評価というのが存在しているのだと思います。
◆◆◆余談◆◆◆
・いわゆるパンツの脱ぎ方について
自己表現とは、究極的には、「己の赤裸々な姿をどうさらけ出してゆくのか」「どのように裸を見せるか」という事になります。
自己承認とは、ありのままの自分が承認されることが目的だからです。 ある種の告白行為が、そこに含まれています。
そこにおいて、例えば、裸をさらけ出した時、「醜い」「汚い」「キモイ」とか言われたら普通は傷つきます。
作品と批評における、精神的ストレスは、自己承認において発生します。
そもそも、自己表現もしくは自己主張には、とてもリスクがあります。 そのリスクを減らす方法が、いわゆる演出であり、つまり、相手を意識した自己表現となります。
裸になる際、汚らしい所を手で隠すとか、又は、裸になっても恥ずかしくないように、体を鍛え清潔に保つとかが、相手に対する気遣いになります。
また、裸になっても大丈夫な舞台をきちんとつくることも大事だと思います。 いわゆる雰囲気つくりです。
登場人物が、赤裸々な表明もしくは告白しても、それが読者にとって嫌悪すべき不躾な行為にはならない位に、正しい状況が作られているなら、その行為は、勇気ある必然となるのだと思う。
これは、恋愛における告白、又は、性愛における衝動的行為が、成立するかしないかのタイミングみたいなもの。
コミュニケーションは、一方が近づくだけでは成立せず、お互いの歩み寄り、又は、お互いのプライベートスペースが瞬間的に消える『魔』といえる状況が必要で、作家の読者へのアプローチ、つまり舞台設定や物語進行の巧みさによって、読者の作品への没入が左右される。
つまり、作者が主張したい事を、どのように主張するかによって、読者の共感が左右される。
自己表現において、作者は己自身(素のまま己≒裸)をいきなり見せつけるのではなく、どのように裸になるかを、意識する必要がある。 つまり、『パンツの脱ぎ方』です。
◆◆◆余談2◆◆◆
・表現と内容
『自己主張におけるこだわりをできる限り凝縮した』作家にとって、伝えるべき要素は、極めて整理された状態にあります。
そこにおいて作家は、ひたすらに演出(エンタメ)に注力できる状態になります。 そして、この時、『エンタメ≒テーマの追求』となります。 なぜなら、『自己主張におけるこだわり』を『他者を意識した目で再解釈する』ことにより、主張がさらに昇華されるからです。
つまり、相手に興味をもってもらえるように『伝える工夫』を行うことが、実は、内容の深みも作ってゆきます。
いわゆる、巨匠といわれる映画監督や文豪が、演出や表現にひたすらにこだわるのは、実はそれが内容(作家の意識レベル・ニュアンス)に関わっているからです。
ただし、これはあくまで、『自己主張におけるこだわりをできる限り凝縮した』先にある問題であって、そこまで到達していない場合、いわゆる、内容と表現は別々に存在しやすくなります。 これが、いわゆる『表現の為の表現』といった状態です。 ……一生懸命、表現しているのに、中身が伝わらない。むしろ、表現そのものの装飾によって、中身が失われる。そうした状態です。
小説を書き始めた頃によくする失敗に、作品の品質が、文体や表現よって決定されると思いこんでいるものがあります。
実際は逆です。内容を効果的(的確)に見せるために、ある極まった表現が用いられている。 つまり、ひたすらに内容を追求すれば、必然的にある表現になる。
つまり、表現におけるこだわりとは、内容を伴って生じるべき問題。
文体にあこがれる人は、実は、文体(形式)そのものに憧れているのではなく、その文体によってもたらされる内容(ニュアンス)に惹かれています(詩情)。