創作論とか、文章の技術論、とか。
2017年11月02日 (木) 15:08

 創作論みたいなのは、結局の所、創作する姿勢みたいな部分であって、後は、作り手ではなく、受け手の事を意識しているか、みたいな所だとは思う。
 『受け手に対しての意識』の部分が、結局、技術って事になるのかなぁ。それは『自意識』の問題として最終的に行き着くとは思う。
 
 なので、誰かの創作論を読むときには、細かな技術的な話というよりも、その人が、『世界や人間や社会をどう考えているのか』、『今という時代をどう考えているのか』みたいな部分を見て取ることが、一番大切だとは思う。



 で、表現の問題は、まぁ、理屈より慣れろって話だと思う。 

 なので、
 『文章の技術』ってのを論じる事は、私は凄く反対なんです。それは『具体的な技術(方法)』という意味です。
 テーマとか全体の構成とか、そうした大まかなレベルなら、たぶん問題ないと思いますが、文章や言葉の選択など、細部についての決まり事を作ると、大抵の人が間違いなく『書けない病』になります。
 理屈で書こうとするとね、まず、書けなくなる。こうあるべきだと思えば思うほど、書けなくなります。

 ただし『文章の読み方』ならいいと思う。

 何故か?
 
 ――――文章が書けないという人は、大抵、読めない人だからです。

  この読めないってのは、言葉や文の表面上の意味を理解できない、という意味ではないです。『言葉や文の裏側に隠された詩情まで感じようとしていない』という事です。 端的に言えば、イメージができない。


 言葉や文に対して感情をもつ事。
 それは、読書によって培われます。

 大好きな言葉、大好きな文章、大好きな文脈。
 それをどれだけ発見しているかによって、言語に対するその人の感性が磨かれてゆきます。
 これは、映画やドラマやマンガでもいいし、落語でもいいですが。
 つまり、言語による才能に触れること。

 でね、言葉や文に何かしらの愛着がない人が、理屈だけで文章を書いても、そりゃ、面白くないですよ。単に体裁だけ捻くりまわしているだけですから。
 その人のなかに、書き方みたいな器があるだけで、中身がないんですから。
 しかもですよ?
 その書き方によって、書くことそのものが窮屈になっている訳で、全然楽しくないハズです。書きたいという衝動を、書き方という強制ギブスで、捻じ曲げているんですから。

 たとえば、
 同じ表現を繰り返すと単調?
 語尾を変化させろ?
 いやいや、そうですか?

 俺は 俺は 俺は・・・・
 書くことが。 書くことが、
 大嫌いだぁぁぁぁあああ!

 ――ほら、繰り返しって、強調に使えますよ?

 僕は書くことが嫌いです。
 何故なら、何を書いていいか分からないからです。
 でも、文章を書いてちやほやされるのは、すごく気分がいいです。
 僕は書くことが嫌いです。
 でも、好きになりたいです。

 ――ほら、語尾を重ねることでも、リズムは出来ますよ?

 んなの、ケースバイケースだろ? 例外だから! とか関係ねぇーです。
 言葉を操るのは、むしろ、自由であるべきで、自由であるべきだからこそ、自ら制限するのも自由。それは、自由が前提で存在するだけの話。
 大事なのは、書きたいという感情。そこに潜むイメージ。ムズムズして動き出すような衝動。

 あかちゃんが言葉を発する瞬間。小さな子供が、父親や母親に自己アピールする瞬間。それは衝動です。それが根源的な表現です。

 小さな子供が、全身で喜びを表現している。
 小さな子供が、全身で悲しみを表現している。

 あらゆる感情は表現である事がわかる。つまり、
 生きることそのものが本来は表現なんですけどね……。



 でも、俺は理屈先行型で、ダメなんだぁー!!という人は、曲先の詞をやるといいと思います。 好きな音楽のカラオケに合わせて、替え歌を作るんです。
 これやると、メロディーを通して、言葉や文章に色やリズムが潜んでいる事がわかります。


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