2018年02月07日 (水) 08:56
ゲーム『ダークソウル3』は、私にとって、厳しいゲームではありました。
心を折られるというか、。
初見プレイで一度挫折して、途中から攻略サイトを見ながら、やっとクリアできたゲームでありました。
私は、アクションゲームが得意じゃなく、ただ、ダクソって、そうじゃない人でもクリアーできるゲームなんですよね。何度も死に戻りをさせられ、その体験によって学習さえすれば。
つまり、真面目にゲームをやるというか、まぁとにかく神経つかうんです。
基本は『弓』。
接近戦でかっこよくなんて、初見でやろうとしたら、余程反射神経が良くないと無理なわけで、特にダクソは、数の暴力で罠を仕掛けてくるから、一人で攻略しなければならない下手なプレイヤーの身からすれば、もう、弓で、一人ひとりスナイプするしかない。
んで、そうしながら、神経すり減らして、次のセーブポイントというか、復活ポイントまで、どうにか攻略してゆくんだけども、まぁ、なんというか「オワリが見えない」んですよ。
そうした「オワリの見えなさ」っていうのはダクソ1もそうだったけども、ダクソ3は加えて、ストーリー上、悲痛に感じさせるようなリアリティというのが、ダクソ1よりもかなりあった。
正直、気が滅入った。
アクションゲームの難しさよりも、実はこっちの方で挫折した。
ダクソシリーズって、アクションゲームの難しさは、むしろモチベーションとして消化できるように、設計されている。というか、それはプレイする前から、分かっていたから、それで挫折するのは、なんつーか、了解できた。
が、ストーリーの陰鬱さによって、挫折させられるというのは、なんかね。
その意味では、ダクソ1の語りの少なさってのは、結果的に、ゲームの後味の悪さを緩和していて、純粋に困難に立ち向かうという所でプレイできていた。
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振り返って思うのは、
ダクソ3は、ダクソ1よりも、ストーリー性が濃かった、ドラマが前面にでていた。そうした悲痛な世界観を、プレイヤーが実感するように作られていた。
それがしんどかった。
が、物語として見たとき、厳密には幻想文学として見たとき、すごく上手く作られた作品だった。
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ゲームにおいて、まずプレイヤーは、ある使命というか、宿命が与えられ、特にそこにおいて、世界と対峙せざるえない状況に置かれている。
そして、その世界において、当然、主人公以外の様々な人々、又は生き物が存在しており、彼らも又、世界と対峙しながら生きている。
プレイヤーは、そうした存在と出会い、又は、敵対する事で、結果として世界を知ってゆく。
ダクソのような作品におけるストーリーというのは、ある意味、現実世界と同様で、それぞれのプレイヤーが解釈した、世界の読み取りでしかない。
ですけど、しかし、これこそがストーリーの本質をついていて、もっと言えば「物語性とは何か?」を意味していた。
つまり、「何故、世界観が重要なのか?」が、示されていた。
世界観というのは、『ある立場から見た世界の意味』という事なんですけれども、ストーリーというのは、そうした世界観を示すための、見取り図的な、又は、配置図的なところがあって、つまり、「世界をどう感じるか?」という『心の構造』そのものを示している。
ダクソでいえば、ゲーム進行上に『配置』される、敵キャラやNPCなどが、既にストーリー上の『要素』なのです。
ここにおいて、いわゆるストーリーのない作品においても、実際には、ストーリはある、と言える。
厳密には、読み手にストーリーを想起させる構造になっている。
というか、そうでなければ、単なる意味不明な乱文というに過ぎない。
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そうした配置された敵キャラやNPC、又は、ある状況に『遭遇』することによって、主人公の心境は変化し、つまり、彼の世界観、その裏返しての人間性、つまり世界への態度、は積み上げられてゆく。
幻想文学において、幻想性とは何か?と考えたとき、まさに、この『遭遇』がどう描かれているかで決定される。
世界は本質的に、理不尽だ。
あらゆる人間は、存在したいと思って、生まれてきたわけではなく、己の意思とか無関係に誕生させられ、そして、「生きろ」と身体からの強烈なメッセージによって生きている存在でしかない。
人という苦悩は、そこから始まっているのですけども、そうした不条理な前提を踏まえた上で、あえて、それを肯定してゆく事で、人生というのは成立する、幸福というのは成立する。 いわゆるヒューマニズムというのもコレです。
で、この世界の不条理、その存在性というのは、逃れられない前提だけども、その『世界存在そのもの』に対してアプローチしてゆくのが、いわゆる幻想的な、もしくは怪奇的な物語となります。
これは神話や民話などの、ある伝承、伝記、伝説、みたいなモノもそうです。
とはいっても、それが解釈可能なのは、それが現実世界の対として存在するからであって、つまり、現実世界の寓意として、それらは存在する。
んで、この寓意というのが、世界観でもあり、又、幻想性でもある。
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いわゆるテンプレファンタジーというのは、世界観は固定された、又は、世界観を解釈しない物語として、存在する事で機能している部分があって、そうした作品は、まずストーリーありきで考えられてゆく。つまり、世界は、世間的に認知されたとある舞台が適用される(これはファンタジーに限らず、あらゆるジャンルで行われている)。
そうした世界に対する疑いのなさというか、考察がないファンタジー作品というのは、いわゆる現実ではない世界としてのファンタジー(おとぎ話)ではあるけれども、幻想性としてのリアリティ(実感)はない。
更に言えば、そうした作品は、ファンタジーの幻想性の裏に隠された、現実性(リアリティ+リアリズム)も、希薄となっている。
こういうとアレですが、本当は、ファンタジーを描く人ほど、現実感覚が鋭くなくてはならない。
というのは「何故、異世界を、架空世界を書くのか? 現実世界ではダメなのか?」という問いにおいて、ファンタジーという舞台は、常に現実世界と対比されるからです。
故に、ファンタジー世界を作る人ほど、現実世界に対する理解が必要になる。
元々、アミニズムもしくはシャーマニズムにおける幻想的な神話の世界も、当時の人々にとっての、ある種の現実解釈(現実認識)であった。
◆
ダクソシリーズというのは、『滅びゆく世界の物語』なんだけれども、そもそも、人間というのは必ず死ぬわけで、その意味では、その人にとっての世界は、かならずどこかで滅んでゆく。
死ぬべき運命をもつ人というのは、ひどく切なく儚い。
が、その記憶、もしくは記録は、物語として刻まれる事があり、そして、それが継いでゆくことで、永遠性を与えてゆく、そこにおいて、人と人との触れ合いがある。そこにおいて否定もまた肯定なのだ。その存在を認識しているという意味では。
その切ない体温が、ダークソウル3には、強烈にあった。
それは絶望でもあり、希望でもある。
いつもご丁寧なレスポンスを有難うございます。
ジブリ作品の完成度が高いと感じるのは、
なるほど、親切設計だからですね。
そう考えるとBLAME!もダクソも恐るべき
不親切さで、確かに荒削りという印象です。
それでも惹かれるのだから凄いですが。
メイドインアビスはご一読の価値ありかと。
少女終末旅行は粗削りの極致だと思います。
それでは、失礼いたしました。