創作活動とマーケティングの狭間から
2018年03月18日 (日) 11:35

◆創作活動とは


 創作活動において、様々な目的がありますが、多くの場合、『自己表現』がまず”第一義”としてあると思います。


 次に、作家が、作品を通じて、読者とのコミュニケーションを取る際における、『真摯に作品がよまれる』かどうかの問題です。実はこれこそが、作品に対する『尊厳』を担保するものであります。
 つまり、たとえ批判だとしても、作品を真摯に読み解く中で生まれたものであるなら、それは、『作品が作品として認識された』という事に他ならず、それは創作者にとっての喜びになるハズです。
 この『作品が作品として認識される事』が、多くの人にとっての”第二義”になるかと思います。


 三番目は、作品として認識され、結論として、共感もしくは敬意をもって受け取られる事です。
 わかりやすくいえば、『承認される』こと。
 『自己表現』において『承認される』ことは、存在を肯定される事に他ならない。
 『自己表現』とは、端的にはいえば、「私はここにいるよ」という事であり、それが肯定されるという事は、「あなたにここにいてほしい」もしくは「あなたはここにいていいんだ」と承認される事です。つまり、信頼関係のようなもの、が、作られるという事。
 この作品を通じた、作家への承認、この『場』を強固にすることが、多くの創作活動における”第三義”であり、最終目的であると思います。


 このように、「創作活動における作品評価とは何か?」と考えたとき、『コミュニケーションとしての作品論』に、行き着き、つまり『作家が、読者に対して、どうアプローチしてゆくのか?』という問題に行き着きます。


◆『ニーズ』型マーケティング

 ただし、いわゆるマーケティング論は逆です。
 需要を捉え、その需要にそって逆算的に商品を作ります。

 つまり、『読者の需要(ニーズ)に合わせて、商品をつくってゆきます』。
 そして、それを”厳格”に追求するなら、作り手の趣向や感情というのは考慮されません。

 ただし、このニーズ型マーケティングにおいても、読者のニーズと作家の自己表現が重なっている場合は、創作活動においても機能します。
 が、あくまで、読者のニーズが主である為、この考え方を中心に考えすぎれば、創作活動する意義そのものを見失ってしまいます。
 
◆『コンセプト』型マーケティング

 ただし『提案型』というマーケティングは違います。いわゆる、作り手がコンセプトをもって、受け手にアプローチする方法です。

 自己表現としての創作活動において、あえて、マーケティングを考えるとき、ニーズ型でなく、コンセプト型が、基本になります。

 『自己表現』というコンセプトを、読者にアプローチするからです。

 ただし、マーケティングにおいては、結局の所、マーケットにおける需要そのものが目的になる為、いわゆるコンセプト型であっても、それは変わりません。
 つまり、コンセプト型マーケティングというのは、あくまで『ニーズ型』マーケティングを変形したものでしかないのです。
 つまり、『ニーズがあるかどうかわからないが、そこにあるだろうと仮定してアプローチする』でしかないのです。

 こうした需要(客)を中心に考える姿勢は、マーケティングにおける原則であり、そうでない場合、マーケティングにとって、それはビジネスではなく、ボランティア、もっといえば自己満足の世界と”され”ます。
 創作において、この価値感覚は、非常に危険なものです。なぜなら、創作というのは自己満足を求めて行う所に、前提があるからです。


◆創作(自己表現)において、需要はきっかけであって、その本質はコミュニケーションでしかない。

 読者が期待する事、興味をもっている事、それをきっかけにして、作家が伝えたいことを知らせ、共感してほしいなと願うこと、それが、創作における一つの姿勢だと思います。つまり、需要はきっかけに過ぎない。

 もちろん、そうではなく、ひたすらに己の美の追求する作家もいます。
 が、それは少数派であり、そして、そうした作家にとって、他者からの評価や賞賛など、どうでもいい雑音でしかありません。
 もし、そうした作品が世にむけて発表されるとしたら、それは、あくまで自己研鑽の為であって、つまり、(その作者にとって)価値ある存在から、率直な評価を得る為であって、けっして(いわゆる)大衆から、興味本位な感想を得る為ではありません。


 ただし実際の、多くの、一般的な創作活動においては、この2つの中間に、真実があります。
 自己表現において、己の美意識を追求する為に創作するのは、ある意味、当然であり、作品発表において、他者からそれを承認されたいというのも、ある意味、当然の事だからです。

 ・真の芸術活動において、創作と言うのは極めて孤独なものです。それはある意味、『自分を説得する(納得させる)為に、活動している』に他ならない。

 ・作品発表とは、公に向けて己自身を主張するという意味において、『他者とのコミュニケーションを通して、自己存在を、自分の外の世界において確立させる事』に他ならない。

 前者は、作家自身の心に秘めるべきモノで、同時に作者のより高みへ到達する為のより追求する(批判を求める)精神であります。
 後者は、読者と分かち合うためのモノで、つまり、共感や賞賛を求める精神です。
 どちらにせよ、それは、読者(もしくはある理想への)とのコミュニケーション(もしくは問いや対話)に他ならない。
 創作する、作品を発表する、という事は、そういう事なのだと思います。


 マーケティングというのは、どこまでいっても、受け手(読者)が、主であり、送り手(作家)は、従であります。
 が、創作、もっといえば、自己表現においては、作家が主であり、受け手が従となります。

 これは、マーケティングというのは『お客様が求める需要を、どう供給してゆくか』という『需要の問題』がまずあるのに対し、
 小説発表というのは『作家が面白いと思う事を、どう読者に伝えてゆくか』という『コミュニケーションの問題』がまずある、という事です。

 マーケティングで創作を考えると、読者への意識は高まりますが、「何故、創作活動、自己表現をしたいのか?」という意識が、どんどん希薄になります。
 これは、結果的に、『書けない病』になります。

 マーケティングや流行というのは、あくまで、自己表現においては二次的な要素にすぎない、という事は非常に重要な『認識問題』だと思います。


◆◆追記

◆商業デザインにおける表現の問題。

 商業デザインにおいて、『デザイナー』は、『その商品のブランドカラー』を『お題』として、自己表現をします。
 そこにおいて、自己表現は、二次的な要素でしかない。

 商業出版における連載マンガとは、出版社が主催する雑誌にのった作品をいいますが、それらは、雑誌のカラーを、基本として、自己表現します。
 ここにおいても、作家の自己表現というのは、二次的な要素でしかない。

 これらは、商品ブランドの看板を背景とした、創作活動だからです。

 ただし、これも、マーケティングにおける解釈において、二次的なものであって、創作活動の視点から解釈すれば、『ある制限下の中で、どう自己表現をしてゆくか』という問題でしかありません。

 プロである事の凄さは、まさにここにあると、私は思います。
 それは、制限下の中で、自己表現できるだけの、解釈(表現)の豊かさにあると言えます。

 「いわゆるプロになりたい」という人は、この部分の意識が、割と重要かもしれないです。



【関連活動報告】
『流行とは何か』を、少しだけ考える
型は大事だと思うけど、型でしかないから
・読者に媚びる必要はない。(読者からみた創作論)
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コメント全6件
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 むらさききのこ 様
 コメントありがとうございます。

 むらさききのこ様の作品だと、『火星刑務所』が好きです。あとは、エッセイも割と。
 それは一言で言えば、柔らかい人柄を感じさせる作品だと感じます。
 別の言い方をするなら、女性的、もしくは母性的、いや、『おかん』って感じがあります。気取ってない、カッコつけてない、ふつう、たくましさ。
 そこにあるのは、日常の延長としての冒険。つまり、非日常と日常を区別しない地続きの感覚。
 これは、むらさき様の武器だと思う。

 女性作家でうまい人って、割とこの感じがあります。
 ヒーローとかヒロインとかが、遠い誰かじゃなくて、その人にとっての身近な誰かとして定義するような感じ。遠い理想じゃなくて、近い理想としての現実。

 むらさききのこ様のもう一つの武器は、かつて宗教にずっぽりと浸かっていたような過去。
 ただそれは、宗教のことを知っているから、ではなくて、宗教をやっている人が無宗教の人たちを、どう見ていたのか、どう感じていたのか、という意味において、そうだと思います。
 世界観が違う人々の、断絶というか、ものすごく遠い距離感というか。

 創作する意味は、むらさききのこ様自身で掴んでゆくしかないです。
 が、しかし、衝動があるから書くわけですから、そこに潜ってゆけばいいのだと思います。
 
 創作することは、自己表現であり、自己顕示であり、エゴイズムです
 だから、エゴイストになることは大事です。

 しかし、書いたあと、それを世間に発表する段階において、読ませたい相手の目線で、表現しなおす必要が出てきます。つまり、エゴイストな己を、誰かの為の物語として語る必要がでてきます。推敲において重要な感覚です。

 エゴな自意識を、誰かの為に包む。
 相反しているように見えて、実は矛盾していません。
 何故なら、誰もがそうしたエゴを抱えて、苦しんでいるからです。

退会済
2018年09月18日 08:43
今まさに、この問題で、頭が痛いです。自分が何をしたいのか分からなくなっています。とりあえず、ベッド周りの本を片付けようかと思います・・・
SN50 様 コメントありがとうざいます。

 プロは凄いですが、逆に、お金を対価にしないと描けない人もいて、逆に言えば、アマチュアの凄さって、創作する事に対する純粋性にあると思います。
 SN50 様の作品も、そうした情熱みたいなのを感じます。それは凄いことだと思います。

コメントありがとうざいました。
オムライス
2018年03月22日 10:22
なるほど・・・いつもながら凄く分かりやすく、色々な気付きを与えて下さるコラムだと感服します。

『ある制限下の中で、どう自己表現をしてゆくか』

プロって本当にすごいですね。
同時に、制限なしで良いものを追い求める
芸術家もやはり選ばれた人達なんだと感じました。
その上コミュニケーションまで考える作家、
漫画家といった人達の凄さときたら・・・。

改めて、尊敬すべき人々だと認識させられました。
惠美子 様 コメントありがとうございます。

 ライターの話、面白かったです。
 表現そのものへの認識というか、そういう所をどこまで考えているかっていう話だと思いました。

 感想の問題は、恵美子様の場合、たぶん、活動報告で「感想や批評を、批判も含めて大募集します!」とがやれば、そっこーで集まると思います。
 私もできる範囲でですが、感想を残してゆきたいと思いました。

 コメントありがとうございました。
惠美子
2018年03月18日 12:10
 名だたる映画監督が制作費をかき集めるに苦労しているお話を塩野七生のエッセイで読んだのを思い出します。かつてのヴィスコンティ、そしてアメリカに行ったきりになっているゼッフィレッリ。
 今の流行りはこうだから、こう書けと言われればある程度書き上げられるライターは幾らでもいるでしょう。それは職人芸だけど、どこまで自分の色を付け、歳月で色褪せないように仕上げられるか。

 アクセスはあっても反応がないと、「面白くない」、「下手」でもいいからコメントが欲しいと願う欲が出てきてしまいます。へこみはしても、こうすればもっと良く書けるかも知れないと気が付くだろうし、これこそが個性だと強く思えるかも知れないから。創作を続けていて、自身のレベルを知りたいと感じ始めるのは当然の帰結でしょう。
 それをマーケティングと分けて説明していただき、納得し、何故創作しているのかと足を止めてみる一文でございました。有難うございます。