• 山月記を読んで
  • 確か教材にもなっている中島敦著『山月記』ですが、最近になって触れる機会があったため、読ませていただきました。
    短編と言うこともあり、とても読みやすく、一週間経たずして二十か三十は読み返してしまいました。ちなみに『山月記』の朗読CDが売っていたのでそれを買い、日に最低二回は聞いております。江守徹さんの声が素敵過ぎます。

    要するに、ハマりました。

    何だか日常のふとしたときに摂取したくなるんですよね。「あ、山月記読みたい」って思ったときにはもう読んでいる。というか朗読も聞いてるから、そろそろ暗記してしまいそうで怖い。

    道徳的に過ぎる内容などが批判される作品ですが、漢文調の文体や、その道徳的な――私見としては、道徳などという小奇麗なものではなく、人の本性をむき出しにしてしまったように赤裸々な本性――部分が何とも心に響き、そして締め付けられ、また癒されもします。
    特にあの文体。簡潔で質素で、堅いのだけど、まるで曲線を描く彫刻のような堅さ。そして、古めかしい語彙。時代が違うのだから当然ですが、およそ文学に疎い私にとって、それは新鮮に映りました。
    その堅さと古さが、静謐な緊張を読者に与える。私には偶々、それが心地よかった。

    そして主人公である李徴の独白は、身に抓まされる思いを今でも感じます。
    『己の珠に非ざることを惧れるが故に、敢えて刻苦して磨こうともせず、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々として瓦に伍するも出来なかった』
    この“半ば"と付けるところに、中島敦先生の容赦ない拘りのようなものを感じます。
    完全に信じていないからこそ、磨くことも出来ず、瓦に伍することも出来ない。完全に信じる、あるいは信じようとすることは、すなわち己の不足した才を真っ向から見届ける作業に他ならない。
    ならばいっそ、確かめず、信じず、模糊としたままでいるほうが、幾らか楽なのかもしれない。

    私も果たして、己の才と真っ向から対峙しているのか、この作品を読んでから気になりはじめました。
    只々、自分に文才などありはしないと思い込んでいるのに、何故こうして文を書いているのだろうか。それはやはり、才無きことを“半ば”信じるが故に、曖昧な状態でいるからではないか。
    私は、私に文才が無いということを、“半ば”までしか信じられない。完全には信じられない。信じたくない。確かめたくない。
    つまり、“半ば”の残りは、私に文才があるのだと、これまた“半ば”信じていると言うことだ。
    恥ずかしい。全く恥ずかしい。才を“半ば”信じるのも恥ずかしいが、結局のところ、才のあるなしに拘泥する自分が恥ずかしい。だが、才能なんか関係ない、俺は文を書くことが好きなのだと嘯けるほど、私は私を信じられない。それもまた、恥ずかしい。

    何だか大仰に書いてしまいましたが、要はこの煩悶が何とも気持ちいいんですねえ。自分の中身を覗けている気がして、何度悩んでも飽きません。
    この作業に飽きない限り、私は『山月記』に飽きることはないだろうと思います。
  • 2010年 10月14日 (木) 01時14分

コメント

>舞月さん
『山月記』はおすすめですよ。やはり長く親しまれるものというのには、それなりの理由があるのですねえ。

他人の文章を真似るのは非常に大事だと思います。私も練習がてら、好きな作家さんの小説を自分で書き写しています。語彙や表現の勉強になりますし、読んでいるときとはまた違った視点で小説を見ることが出来るので楽しいです。

私もまた、修行に明け暮れる身です。良い小説、良い文に出会うたび、それを尊敬する気持ちと一緒に、こんな文を自分も書いてみたいと、分不相応ながらに思うことが多々あります。その『壁』となるものを一つ一つを越えられるようになりたいものです。

私見ですが、自分の中身を見れる人は、小説家として非常に有利だと思います。それが発露すれば、すなわちその人由来のオリジナリティとして現れる。
これは小説家としての魅力に直結する要素だと思います。私はそういうことに自信が無いので、羨ましく感じてしまいますねえ。
投稿者:neoblack  [ 2010年 10月16日 (土) 17時12分 ]
 むむぅ……『山月記』ですか、私はまだ、読んでおりませんので、今度読んでみたいです。ただ、私見としては、neo氏の文章はとても綺麗なもので、自分にはとても真似できないものです。他人の文章を真似するというのも変なものですが……なんといいますか、『これは自分には書けない』という今のレベルが、neo氏のを見ていると何度も痛感させられています。
 しかし、それでも私も修行中の身でありますし、追いつき、追い越さなければいけない壁の一つなのでは、と私は思っております。
 自分の中身を見る、これは、いつも自分が目標にしていることです。……実は、自分は『嬉しい』とか、『悲しい』とかの感情がいまいち心では理解出来ていません。体とか、脳が勝手に動いているような、まるで他人事です。体が怒ってようやく、『自分は怒っているんだ』と思い、体が嬉しがってようやく『自分は喜んでいるんだ』と理解できます。
 だからでしょうか、自分の中身を見ることが、自分はとても大好きなんです。自分が何を考えているのか、というのが、よく解らないから……ですね。
 neo氏も、これから頑張ってください。なにやらグチっぽくなってしまって、スイマセンでした
投稿者:舞月朝影  [ 2010年 10月14日 (木) 15時58分 ]
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