エッセイ未満:申し訳ないですvs申し訳ありません

2017年 09月14日 (木) 04:22

 エッセイとして公開するほどまとまった内容ではなく調査も不足しているけれども、考えを整理するために書きつけておくメモです。そのうち時間がとれたら独立したエッセイになるかもしれません。今後もたまにこういう記事があるかも。


 さて、これはビジネスマナーなどで有名な話ですが、「申し訳ない」や「とんでもない」はこれでひとかたまりの単語なので「申し訳ありません」や「とんでもございません」は間違いである、という議論があります。(なぜこの件をなろうで書くかについてはこの記事の末尾をご覧ください。)

 先に私自身の立場を明らかにしておきますと、私も基本的にはこれに賛成であり、自分でしゃべったり文章を書いたりするときは決して「申し訳ありません」とは言いたくない派なのですが、そう言いたくなる気持ちはわかりますし、ビジネスの現場で相手が(不当にも)怒ることを考慮してそう言わざるをえない場合もあるだろう、というのが正直なところです。
 ちなみにそれ(「申し訳ないです」に気分を害すること)が不当だというのは、「申し訳ありません」が間違いだということを前提にした論点先取ではなく、ビジネスに関わる人間なのにこうした議論を知ろうともせず、また日本語に詳しくもないくせに他人の敬語を間違いだとか謝罪の念が足りないとか決めつけるその態度のことを言っています。敬語のわからない人間が他人の敬語を云々するなど愚の骨頂です(野球のルールを知らない人間が野球のプレーについて批評するようなもの、と言えばどれほど馬鹿らしいか明らかでしょう)。「申し訳ありません」が正しかろうと間違いだろうと、それに関わりなく「申し訳ないです」のほうは完璧に正しいのです(もっとも論理的な正しさがそのまま現場に通用しないのが難しいところで、敬語というのは敬意が伝わるかどうかが本義なのだとの主張も可能ですが、それは別の話)。

 のっけから話が逸れてしまいました。ご存知ないかたのためにも、この問題を最初から詳しく考えてみましょう。
 一般的に「申し訳ありません」が間違いだとされている根拠は、「申し訳ない」が「申し訳な」を語幹とする一語の形容詞だということです。
 つまりこれは「はかない(儚い)」「きたない(汚い)」「おさない(幼い)」「つたない(拙い)」「あぶない(危ない)」「ぎこちない」「情けない」「心ない」「もったいない」などなどと同じで、「はかありません」「きたありません」「おさございません」などと絶対に言わないように「申し訳ありません/ございません」もアウトだということです。

 「申し訳ありません/ございません」は見ての通り「申し訳あります/ございます」を否定形にした形ですから、「申し訳あり/ござい」という連用形(後者はイ音便)になる前の「申し訳ある/申し訳ござる」という言葉がなければありえないことになります。
 といっても、慣用的に否定文(あるいはより一般的に特定の活用形)でしか現れない単語というのはいくらでもあるでしょうから、これはさほど決定的な反論ではないでしょう。それゆえ私はこの一点をもって「申し訳ありません」がありえないと断ずるつもりはありません。

 「申し訳ありません」肯定派はしばしば、「申し訳ない」は「申し訳」という名詞と「ない」という形容詞の二語として捉えられるから分離して「ありません」にしてもセーフなのだと主張します(というより、それ以外に根拠はほとんどありません)。「申し訳」は「言い訳」や「申し開き」などと同じでちゃんと意味のある言葉ですから、確かに「申し訳ありません」と言ったとしても意味は明瞭で誤解の余地がありません。
 しかし、「名詞+ない」に分解できるからよいのだと主張するのであれば、上に挙げたうち「情けない」「心ない」「もったい(勿体)ない」、それに「素っ気ない」「面目ない」「如才ない」「何気ない」などなども同じことですから、その人は「情けありません」「心ありません」「勿体ございません」などと言うつもりなのでしょうか? 上の理由で「申し訳ありません」を認めるならば、これらもすべて許さなければならないことになります。
 いえ、「はかない」「おさない」「きたない」などですら実は事情が同じなのです。「はかない」という語は「はか(果)=成果、甲斐」がないという成り立ちですし、「おさない」とは「おさ(長)=年長」でないという語源です。「きたない」はきわめて古い言葉なので定かではありませんが、「きた」が「秩序」のような意味合いを持っていてそれがない(すなわち整然としていない、「だらしない」と同様の意味)という語源とする説があります(高校で日本史を習った方なら、和気清麻呂(きよまろ)が別部穢麻呂(きたなまろ)に改名させられたという幼稚園児みたいなエピソードをご存知でしょう。つまり「きたなし」は奈良時代にすでにあった言葉です)。

(自分用覚書:「ない」の分類についてもう少し厳密に検討してみるべき。以上挙げた例は基本的に名詞+あるなしの「ない」だが、「つまらない」「くだらない」のように動詞の未然形につく助動詞の「ない」や、「切ない」「忙しない」のように形容詞を作る接尾辞の「ない」のごとく、「ある」に対応しえない場合ならば無効な議論。論点を明確にするためには、これらを正確に選り分ける準備をした上で同じカテゴリの「○○ない」だけを扱うべきではないか?)

 こう考えてくると、問題は(1)「○○ない」の「○○」と「ない」がどれくらい「素人目に」結合して見えるか、そして(2)「○○ありません/ございません」の形がどれくらい見慣れているかという、程度問題でしかないように思えてきます。
 「おさない」や「はかない」は今更「長・ない」「果・ない」とみなす人がめったにいないから「おさありません」「はかございません」と言う気にならないのに対し、「申し訳・ない」「とんでも・ない」はかなり切れて見えるし、実際に「申し訳ありません」「とんでもございません」と言っている人もよくいるのでついそう言いたくなってしまう、そして「情けない」「心ない」あたりはその中間くらいかなという、ただそれだけの話なのでしょう。
 あるいは、言語の「正しさ」とは実際に使われているかどうかだけだとする素朴な立場ならば、まさに「申し訳ありません」が人々に使われているということそのものを、この表現の正しさの根拠に加えることもできるでしょうか。

 これはかなり常識的ですが意味のない結論かもしれません。つまり絶対ありえない「おさありません」などに比べれば「申し訳ありません」の気持ちは共感できる(許容度が高い)けれども、だからといって正しいとまでは言いませんよという段階説が私の立場です。
 少なくとも私は後者を正しいとまで断言する確たる根拠を知りませんし、別段擁護する動機や必要がありません。それに比べれば確実に正しいとわかっている「申し訳ない」の活用の範囲内で敬語の程度を変化させ、「申し訳ないです」「申し訳なく存じます」「申し訳のうございます」「申し訳ない所存でございます」などなどを大手を振って使えば済む話です。
 世の中には「申し訳ないです」に(不当に)怒る人がいる一方で、「申し訳ありません」に違和感を覚える人も十分いるわけですから、どっちも爆弾なら確実に正しいほうを使うほうが後悔が少ないでしょう。

 最後に、こんな話をなぜなろうの活動報告(というか本来ならエッセイにしてもよかったのですが、内容が少ないのでここにしました)でしたのかという話ですが……。
 なろうの小説でよく出てくる、堅く正確な敬語を使っているはずのキャラクター(姫や貴族、あるいはその執事やメイドなど)が「とんでもございません」などと言い出すと興ざめだ、というのが私の意見だからです。
 もともと「とんでもございません」が許容されてよいと言えるのは、現代のビジネスや日常の場だと「とんでものうございます」などは古風すぎたり演技がかって聞こえたりしてやや使いづらいためでした。
 しかし中世風異世界の執事やメイド、奴隷商人などなどなら「とんでものうございます」でも全然違和感はないのですから、あえて「とんでもございません」なんて言う必要はありません。前者を使ったほうが角も立たないし雰囲気も出るのではないでしょうか。

(これが言いたいだけで書き始めた記事なので内容がやや真面目さを欠いています。「とんでものうございます」のほうがかっちりしているなんて、ことさら言いたてるまでもない話ですし……。)

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