天正十年六月二日、京をひとりの忍びが西へ向かって出立した。
明智の重臣斎藤利三の配下の忍び藤佐である。藤佐は光秀が小早川隆景へ充てた密書を携えている。そして藤佐を追う同役の弥五。しかし弥五は密書を奪い、小早川と対峙する羽柴の陣へ駆け込もうとしている。
「明智の御大将かて織田の大殿様を攻め殺したんや。儂もやったる」
弥五は同じ地下人から立身した羽柴筑前に侍分として取りたててもらうことを望んでいる。弥五たちは「足」と呼ばれ、素走りによって仕える忍びの端くれ。闘いは不得手であるが、見苦しい死闘の末、弥五は密書を奪った。
弥五は密書を黒田官兵衛に届ける。
官兵衛はその内容に驚愕しながらも、偽書をつくることによって明智の陰謀に打撃を与えようとする。
「……光秀事、かねてより賜りし将軍御命によりて、今月二日、本能寺において信長父子を誅し候……」
という文言を、
「……光秀事、近年信長に対し憤りを抱き、遺恨もだしがたく候。今月二日、本能寺において信長父子を誅し、素懐を達し候……」
に変え、花押も偽造した。
これにより将軍の命により無位無官の信長を誅した光秀の行為は、単に私怨による私闘と解釈されても仕方がなくなったのである。
そして備中大返し後、山崎の合戦で明智は敗れ、偽書だけが残った。
明智光秀は希代の裏切り者としてその汚名を永く世にとどめることとなったのである。
一方弥五は多くの名もない忍びと同じく、その屍を野に晒した。もちろん己が歴史を変えるきっかけとなったことなど知るよしもなかった。
時代小説 シリアス 男主人公 和風 戦国
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