──この店は、まだ名前を知らない「物語」のためにある。
どこにあるのか、誰が開いているのか、誰も知らない。
それでもふとした夜、心に雨が降ったとき、人はなぜかこの店にたどり着いてしまう。
小路の奥、薄明かりの看板。その上には、一匹の黒猫が静かに座っている。
扉を開ければ、古びた木の床と、ジャズのレコード。そして、無口なマスターが出迎えてくれる。
名前も、年齢も、性別すらもわからない。けれどその声は、なぜか、ずっと昔に聞いたようなぬくもりがある。
──この喫茶店「月夜ノ猫亭」は、誰かの心が迷ったときだけ、姿を現す。
訪れる人々は、皆、何かを抱えている。
過去の痛み、未来への不安、言えなかった言葉、消えてしまった夢。
だがここでは、猫たちが静かに寄り添い、マスターがひと匙の言葉を差し出してくれる。
一杯のコーヒーの香りと、記憶をそっと撫でる猫のまばたき──
そして、帰り際にポケットの中にそっと残された“なにか”が、彼らの物語に続きを与える。
これは、“誰かの人生の一夜”にだけ灯る、静かな灯りの物語。
すべての回は独立した短編として読めるが、やがて店の秘密やマスターの正体が、少しずつ明かされていく。
読んだあと、心のどこかに、そっと温かい余白が残る──
そんな物語を、あなたに。