ここは、どこだろう。
ここは、世界だ。
自分は、なんだろう。
自分は、世界だ。
世界とは、なんだろう。
世界とは、何か。
たとえば、この世界、と呼ぶとき、
それはいったい、何を指しているのだろう。
この地面か。
この空間か。
この星か。
この宇宙か。
この社会か。
この精神か。
この思考か。
この言語か。
考え方を変えてみよう。
この世界、ということで、意味が通じるのはなぜだろうか。
そこに、何かしらの共通認識がある、
ということになるのだろうか。
この世界、というワードで、思い浮かべるものがあり、
それに共通する何かがあるとしたら、
それが、世界だろうか。
自分が、この世界、と呼ぶものを、相手はどういうふうにとらえているのか。
それを、知りたい。
だけれど、それは、知ることができないのが正しい、と思える。
たとえば、自分が説明する側だとすると、どう説明することもできない、と思うからだ。
自分は、世界の一部ではないし、
世界は、自分の一部でもない。
自分は、世界なのだから。
自分のことを説明しようとしても、
それを説明している自分のことが、
本当に伝えたいことなのだから。
つまり、誤解されることしかできないだろう。
それは多分、
会話というものが、正しく機能している、ということなのだろう。
余計なのだろうか。
説明などは。
誤解しかない。
会話というものは。
そして、それで、
うまくいっている。
この世界は。