自己紹介
 昭和40年、愛知県西部のけっこう有名な町に生まれました。

 あんな家に生まれなければ、あんな従姉さえ居なければ、私は違う人生を生きていたと思います。
 
 昔の手帳を見ると、たくさんの友達がいて、メディアなどの知り合いも結構いて、テレビに何度か出演しました。
 母が殺されてプロの奏者にはなれなかったけど、名古屋の栄と東京でスカウトされたし、友達に着いて受けたスクールメイツからも誘いの連絡が来ていた。
 セミプロのバンドのキーボードに誘われた事もあった。
 今で言う推しも居て、家と縁を切ると覚悟して
稼いだお金を自分のために使うと決めて推し活してた時も推しと近くなった頃、従姉の御涙頂戴話に追い詰められて泣く泣く諦めさせられた。
 親友の知り合いの喫茶店のママに「この店を任せたいからママになってくれない?」と言われたり、バイト先で私の働く姿勢が認められてヘッドハンティングを受けた事もある。
 でも従姉はそんな私が気に入らなくて、バイトを辞めさせ自分の居た会社に私を就職させた。自分よりできることが気に入らなかったから、何もできない子にしたかったのだ。

 あんな家に生まれたから、あんな奴らが居たから、「私なんかダメだ」と思うようになっちゃって全部、全部、諦めた。
 今更、恨みたくてももう、あいつらは居ない。
 だから書きます、私の生きた証を残したいから。
 
私の生まれた 家の近くには、由緒ある神社と祭りで有名な公園があります。うちの息子達が子供の頃までは、その公園に何種類もの動物たちがいて、地元民の身近な動物園になっていました。
もともと、観光バスが来るような名所で、歴史的文化財もたくさんあります。
 残念な事に、今では外国人や県外からの観光客が押し寄せてきて、当時のようなのどかな場所ではなくなってしまいました。

私の生まれた家は、神社と公園を繋ぐメイン道路になっていて、祭りの日は家の前が歩行者天国になり、大勢の人が行き交うのを、二階の窓からいつも独りで眺めているだけの私が居ました。

中学生になってからは公園が通学路の一部になり、行き場のない私にとっての居場所でもありました。
帰り道、中の島にかけられた小さな橋に立って、睡蓮の花を眺めている時間が好きでした。そうしていると、嫌な事を忘れられた気がしたからです。
 そんな事を思い出しながら、愛知県なまりでセリフを描いたりしています。

 周囲の人からはよく
「優しい人だね、絶対に怒らないでしょう。だって、そういう風に見えるもん」と言われました。
 でも私は優しい人でも、いい人でもありません。優しくしようと思ってしたこともないし、そうなろうと思って生きて来たわけでもありません。
 ただ、他の人よりも、たくさんの心の痛みを知っているだけです。
 
 でも、最近の私は自分の親に対して意地悪なことを思ったりします。
「ちゃんと最後まで責任をもって育てる気がないなら子供なんて産むな!」

 私の人生を振り返ると、今こうして生きていることが不思議なくらいです。

 幼い頃から、何度も死んでもおかしくない状態でいましたが、特に中学を卒業してバイトで生計を支えていた頃のことを思い出すと、自分でもゾッとします。

 夜が明けかけた4時頃のこと、突然、車が家に突っ込んで来たんです。
 私と同じくらい齢の男の子が、父親の商用車を無断で持ち出して、二軒の家に突っ込んだのです。
 石材店の息子が、車検の切れた車のカギを盗み、面白半分に夜な夜な暴走をしていたんだそうです。
 その日が初めての運転だった少年は、公園から続く細い道路のL字カーブを曲がり切れず、そのまま真っすぐに最初の家に突っ込みました。
 そして慌てて逃げてきた時に、またハンドル操作を誤り、うちの家に突っ込んだそうです。
 けど、うちの家の前は見通しも良く、とてもゆるやかなカーブで事故を起こすような場所でもなかったので、みんなが驚きました。
 最初に突っ込んだ家は、宗教団体が所有していて、住人は居なかったのでケガ人も出なかったみたいで良かったです。

 ただ、「一番いい物で直してくれ」と言ったそうで、工務店の人も「それは、そうだよな、迷惑かけたんだから。どうせ保険が出るんだし、お宅もそう言えばいいよ」と言ってくれたのですが・・・
「そんな欲を出さんでも良いわ、うちは直してもらえるだけで御の字だから」と、誰よりも業突く張りの癖に、こういう時だけはいい人を演じる伯母を思い出すだけでむかっ腹が立ちます。

 あの時は、父が玄関前の庭を増築してくれていたお陰で私は命拾いしました。
 庭だった部分にコンクリートを敷いて、トタンで囲っただけの古いお好み焼き屋の跡がそのまま残っていたんです。 
 それがなければ、私の部屋は庭に面してガラス戸がむき出しだったので、寝ているベッドに車がもろに突っ込んできて、完全お陀仏していました。
 正直それでも良かったと思う自分が居て、生き残ったことを喜ぶことは難しいですが、何度もたくさんの人に命を繋いでもらって、ここまで生きて来られたことに間違いはありません。


 私にも真剣に進みたい道があって、本当なら大好きだった音楽の道で生計を立てているはずでした。
 自分で稼いだお金で、母と二人で生きて行きたかったんです。
 それも酷い大人に奪い取られて、気づいたら一生懸命に培ってきた大事な知識さえも闇の中に消えてしまっていました。
 人は苦しみが多いと、大切にしていたものまで一緒に消えてしまうんだな、と、自分の記憶を通して知りました。

 私が、このように自分の過去を発信したいと考えるようになったのは、数年前にあるSNSを通して知り合った人達との出会いがキッカケでした。

 今はもうないんですが、当時は【虐待を受けて育った大人】をサポートする団体があり、何故か?そこの代表に強く頼まれて、理事をしてすることになったのです。書籍化の話も出ていて、自助グループの相談にのったりもしていました。
 それで、はじめて【ああ、私も虐待されて育ったんだなぁ】と、気づいたんです。
 私以外の人はみんな親を恨んでいました。
 中には大きな財産があって、合法で解決できることなのに【絶対に自分の手で復讐するんだ!】という人もいました。
 でも、私はそんな人達を見ていて、切なくなってしまいした。
【恨むことでしか生きられないなんて、苦しいだけなのに・・・】と、やりきれない気持ちでいっぱいになったのです。

 私の場合は、『母親に虐待された』とか『義父に暴力をうけた』のように、一言で語れる環境にはありません。

 ただ、やっと気づいたのは、長い年月をかけた従姉の陰謀が、次々と私に不幸をもたらしたのだ、という事です。
 従姉さえ居なければ、こんなに苦しむ必要はなかったし、母も死ななくて良かったかも知れない。
 母が元気で生きていたら、きっと私は胸をはって、自分の好きな音楽で人生を楽しみながら生きていたに違いない。

 私に酷いことをしたどくずな大人の共通点は【親に逆恨みをしていた】ということです。
 どいつもこいつも、戦争や時代の流れなど、どうしようもない事を理由にしては、幼い私にいつも親への恨み節ばかりを言いました。
 だから私は大人が大嫌いで、人間が大嫌いになりました。
「どうして私は、こんな【醜い(みにくい)人間なんか】に生まれてしまったんだろう」と、自分を呪ったほどです。

 こんな恥ずかしい環境に生まれてきたなんて、誰にも言えませんでした。

 でも、世間は好き勝手に噂を広めて、いつも私は酷い苛めの標的にされていました。
 何も知らない私だけが餌食にされ、家にも外にも居場所がなくて、それでも逃げ場もなく、うずくまっていた幼い頃の自分が不憫でなりません。

 私の人生は、生まれながらにして「まるで世の中の人の不幸を一手に引き受けたようなもの」でした。
 私の過去を少しでも知っている人は、
【ドラマのような人生だ、嘘みたいな話で信じられない】
【高度成長期に生まれたのに? ある訳ないよ、そんなこと。あんたの妄想じゃないの?】と、嘘つき呼ばわりまでされました。

「生きたくても生きられない人も居るんだから、死にたいなんてダメだよ!」と、人は簡単にいいますが・・・
それって、あまりにも無情だと思いませんか? 私はそう思ってしまいます。

「何も知らない癖に!」
「死にたくない人は、夢や希望があって幸せな人生だからでしょ?」
「だったら、死にたいほど苦しんでいる人の気持ちはどうなるの? そんな風に言われたら、何も言えなくなってしまうじゃない」と、私は、いつも思ってしまいます。
 だから、私は「死にたい」と思うほど苦しんでいる人の気持ちを知ってもらえるよう、自分の過去を書いていこうと思います。
 その安易な言葉や考えが、人をどんな風に傷つけているのか? を、しっかりと知って欲しいからです。


「ただいまー」と言えば 「おかえりー」と言ってくれる人がいる、それは、決して当たり前にある物じゃない。
【帰りたいと思う家がある】ということは、本当に恵まれているんです。お金や物では埋められない、【安心できる居場所】があることは凄いことです。

 私の過去は決して良い物じゃありません。
 本当なら、私に酷い事をした奴らを恨んでいても仕方のない事だと思います。
けど、私は、なぜか? 恨むことも知らずに生きてきました。
思えば、それが私の強みなのかも知れません。
 
 そんな私だからこそ、文字にしてたくさんの人に伝えることに、意味があるのではないかと思うのです。

 そして、私の過去を知った人達が、一人でも多く
 近くにいる誰かの苦しみを見逃さずに、小さなことでも良いから気づいてあげられたら、この世界も少しはマシになるかも知れないと思うので。