自己紹介
 暗く暗い世界の中、少女は一人立ち尽くす。
 愛しい人を──彼女にとっての世界を失い、そのような状態に陥った。

 だが、彼女は生きている。
 彼女に命を与えたのは他でもない、既に死した最愛の人物だ。

 彼が育んだのは、人を愛することで得ることのできる強い充足感だった。日々を進む為の活力だった。何かを得ていく為の理由だった。
 しかし、本来最も必要だった……人間であろうとする力、人を慈しむ心、世界の理不尽を理解する知性は、『最初』と変わらず欠如したままだった。

 多くを与えられながらも、彼の期待に応え続けてきた彼女は、ただ一人の死で存在意義を失った。

 ……それでも、やはり彼女は生きていた。
 死の恐怖を知り、理想の男性が自分の鏡像でしかなく、万物を憎んだからこそ、死を免れた。
 自死を選ぶことも叶わず、理想に酩酊できない程度の──『中途半端な知能』を獲得したが為、そうせざるを得なかった。


 暗い世界は《破滅》の世界。
 彼女以外の全員が絶望、失望、苦痛、苦悩、そうした負の事象に取り巻かれた世界。

 しかし、それは決して悪いと断じることのできぬ環境だった。
 誰もが負に慣れ、正を忘れ、中立不変の状態を維持している。今では人の死でさえ、嘆きや悲しみになりえない。

 いつか、陽が世界中照らしていた頃の人々であれば、想像もできない現状に強いショックを覚えたことだろう。
 だが、今この世界を生きている者達にそれはありえない。これこそが、彼らの日常なのだから。

 《終焉》した世界。客観的に言う不幸が充満しながらも、誰もがそれに順応した世界。



「生きていたんだ」
「……あなたが、それを狙っていないことも理解している」

 色鮮やかなパレットを水に浸したような──濁りきった黒の瞳が女性の姿を映す。
 記憶の中とは異なる人物ながらも、眼の主は相手を認識していた。

 藍とも紫とも言える色をした──それであって当時とは違い、長くはない髪。

「あなたへの憤りはない。だって、あなたは今の私を……昔から、私を愛してはいなかったんでしょ? 子をみる目は、いつだってパパの為だった」
「よくわかってるじゃない」
「……でも、私はあなたのことを愛していたわ。本当の母親を覚えていない私からすれば、あなたが唯一の母親だったから」

 女性は一歩目を踏み出すが、この場の主は動こうとしない。

「あなたは『親友』を殺した。あなたは『アイツ』を殺した。あなたは──『明日』を殺した」
「もう前に進めないのよ。前が見えないの。私自信も見えていない。考えられないの、前は楽しい未来を書くのが好きで、苦しいけどがんばっていた。でも、もうできないの……何をすればいいのかも、どういう風に進んでいけばいいのかも……」
「なら──あなたに変えてもらった私が《破滅の巫女》を……ママを殺す」

 まるでその時を待っていたように、かつてのままの幼い顔に、狂気を滲ませた。

「(きっと私は、こうなることを望んでいたのかもしれない。みんなが不幸になって、みんなが私と同じように苦しんで、そうだったら苦しくないって信じてた。でも、それはならなかったから──せめて、最期だけは……)」

 腹部に突き刺さる剣を見て、少女の整った表情が歪んだ。恐れ、悲しみ、後悔……この世界の誰もが慣れた表情を、彼女は浮かべていた。
 血は滴る。体は異物による傷害に呻き、痛みの信号を伝える。

「痛い……痛い?」
「……」
「──ず? なんで私を『楽に』殺してくれなかったの……? こんなに痛いって分かってたら、殺されたり──」
「みんなは、もっと苦しんだ。あなたが心地よく死ぬすることを、誰が許すと思ったの?」

 理想も、希望も、未来も、最愛の人も、何もかもを失った彼女にとって、生き続けることは呪いでしかなかった。
 だからこそ、せめて自分が一度でも愛した者に介錯をしてもらいたい──この終わった世の主が願った、たった一つの展開は……その世界の法則を適応したままに発生した。

 次第に世界は崩れていき、核を失ったように全てが曖昧になっていく。

「パパ……私も結局、どっちつかずだったね。結局、ママの願いを叶えちゃった──パパがいたなら、どれだけ辛い思いをしてたって、こうはしなかったよね」

 激痛に悶える《破滅の巫女》は絶命する間際に、かつて娘だった女性の声を聞いた。

「(あの人だったら、きっと私を救ってきた……私がどれだけ駄目でも、きっとすごい奇跡を起こして、私を助けてくれた……あの人がいたら、私だけの王子様がいたら……何もできない私じゃなくて、あの人が生きていれば)」

 永劫に叶うことなき空想、後悔を残しながら、少女は尽きた。