「紙の本を読みなよ」
もちろんこれは、アニメ『PSYCHO-PASS サイコパス』に登場するキャラクター、槙島聖護のセリフだ。正確には作中のセリフは「読みなよ」ではなく「買いなよ」だが、彼は紙の本について、こう語っている。
「電子書籍は味気ない。本はね、ただ文字を読むんじゃない。自分の感覚を“調整”するためのツールでもある。
「調子の悪い時に、本の内容が頭に入ってこないことがある。そういう時は、何が読書の邪魔をしているか考える。調子が悪い時でも、すらすらと内容が入ってくる本もある。なぜそうなのか考える。
「……精神的な調律、チューニングみたいなものかな。
「調律する際、大事なのは――紙に指で触れている感覚や、本をペラペラ捲った時、瞬間的に脳の神経を刺激する物だ」
〈『PSYCHO-PASS サイコパス』 第15話 「硫黄降る街」より〉
紙の本、電子書籍、それぞれのメリットデメリットを語っていると見落としがちな話なのだが、電子書籍には無くて紙の本にはあるものが、確かに一つ、存在する。
『経験』だ。
私にはこれまで、紙の本を読んできたという経験がある。電子書籍を全く読んだことがないとは言わないが、これまでの人生における多くの読書の時間は、紙の本に費やしてきた。それはそうだ、電子書籍が普及し始めたのは、私の人生も折り返しを過ぎたであろう頃からなのだから。
経験がものを言うように、経験に裏打ちされるように、物事には経験が積み重ねられる。経験があり、歴史がある。私にとって紙の本と過ごしてきた時間は、もうどうしようもなく存在するのだ。
だからこそ、紙の本、電子書籍という二つの物を並べて考えた時、私はどうしても紙の本に肩入れしてしまう。
だが言われなくとも、頭では分かっている。今も紙で読んでいるマンガは、しかし既に大体はデジタルで描かれたものだ。この文章だって、パソコンで打ち込んでいる。私たちの生活には既にデジタルが根付いていて、今や私でさえ紙に触れる時間よりパソコンやスマホを眺めている時間の方が圧倒的に長い。
最近の子……私の娘もよくスマホでマンガを読んでいるが、そういう世代からすれば、私にとっての『経験』が紙の本であるように、電子書籍にそれを積み重ねていくことになるのかもしれない。
「でも、パパもすっかり電子書籍派になってるなんて……。よくタブレットを使ってるのは見てたけど、紙の本への愛情は変わらないと思ってた……」
少し前までは、今朝のような話をした時、パパは確かに紙の本派だったはずなのだ。スマホ世代の娘に対して、「時代は変わったねえ」なんて一緒に呑気に言っていたはずなのだ。しかし気付いたら、ズブズブの電子書籍派になっていた……。しかも、昔コミケで同人誌を買っていた時、気恥ずかしかっただなんて……。
私がこれまでパパと……パパになる前の彼と共に過ごしてきた時間、経験、歴史は、私が一方的に脚色していた思い出だったのだろうか?
「はぁ……」
憂欝な昼下がり。洗濯物を取り込み、パパのクローゼットにシャツをしまいながら、溜め息も一緒にハンガーにかける。平日の昼間から家事をする私は、しかし主婦ではなく在宅ワークが可能な仕事なのだが、パパは今頃クローゼットに溜め息が詰め込まれていることなど露知らず、このご時世でも相変わらずスーツを着て会社に出向いている。
溜め息を吐いて俯きがちだったからだろうか。クローゼットの下の方に、見慣れない段ボール箱があった。前からあったのか、最近ここに移動したのか。箱の状態からして新しいものではない。何かを隠すように隅に置かれた段ボールに、興味が一気に持って行かれる。
……えっちな本とかだったらどうしよう。そういうの、集めるタイプだったっけ? 結婚してからしばらく経った旦那相手に下世話な心配をしながらも、恐る恐る段ボールを開ける――すると中には、同人誌が入っていた。
えっちな同人誌ではない。全年齢向けの、特定のジャンル。具体的に言えば、それは昔私が描いた同人誌だった。
「………………………………」
えろいものではなかったが、どえらいものが出てきた。昔集めたのは、捨てたって聞いていたが……。
創作活動をした経験がある人なら分かってもらえるだろうか? 十年二十年も前に、自分が創作したものが突然目の前に現れるというシチュエーションが、どれほどの攻撃力を持っているのかを。イメージで言えば、学生時代のノートの端っこに描いたもはや覚えてもいないような落書きを全部切り取られて塊にして出してこられたようなものだ。それを目にした瞬間全身を駆け巡ったのは、悪寒を越えた何かだった。凍えた。
「………………………………」
しかし……。この特級呪物が封じ込められた段ボールがそれほど痛んでいないこと、結構大事に保管されていたことを見るに、パパがこれをどういう気持ちで捨てずに持っていたのかが察せられて、何とも言えない気分になってくる。
これを描いていた時代は、まあ黒歴史と言って差し支えないわけだが、しかしだからと言って、闇に葬ってしまっていいだけのものでもない。あの頃が無かったら、私はパパに出会っていないし、パパママと呼び合う家族になることもなかった。そんなかけがえのない思い出が、この同人誌たちには詰まっている。
パパにとってその記憶とこの同人誌がイコールだとは限らないのだが、それでも私は、パパがここで大事に保管していたのは同人誌だけではなくその思い出ごとなのではないかと、感じていた。
――その時。
「ママー?」
「わああああああああああああ!? か、夏南かな!?」
心臓が口から出て、床にぶちまけられた。グシャグシャグシャグシャと音をたてて床に散らばった。ようなイメージが駆け巡る。
「うん。ただいま」
「お、おかえり……! そっか、今日は終業式だから早く帰ってきたのね」
「うん。……ねえ、今なんか隠してなかった?」
「いや、いや。別に。何も。パパの洗った服しまってただけ。ところで夏南、おやつにしよっか? あははー、ママ小腹空いちゃったなー」
「……んー……、まあ、いいけど……?」
そう言って夏南は、踵を返す。ホッ、と大きな声(イメージ)で安堵の息を吐く。
――パパにとっての同人誌が、何であれ。黒歴史は、黒歴史。誰に一番読まれたくないかって、それは娘である。
電子書籍(と言うか、デジタルのデータ)のメリットを、私は新たに一つ見つけてしまった。デジタルなら、ロックをかけて閲覧可能対象を制限することができるのだ。紙の本は、いざ手に取られてしまえば、読み手を選ぶことはできない。
早急に娘がこれを手に取らないよう策を練らなければならない。何か別のものに娘が夢中になっている隙に、段ボールを片す算段をつけよう……と、私はクローゼットを閉じるのだった。
2022/09/27 ――お題『紙の本』あとがきのあとがき、というかスピンオフ