レビューした作品一覧全11件
物語を語り、聞くということ
投稿日:2016年12月26日
物語は、ある共通の傾向を多数の人間が携えているということが前提された集団の中でしか成立し得ない、ある意味閉じられた形式のものだ。近代小説はそれを開放したことに意味があり、けれどもそれは、物語へのネグレクトを同時に示し得る。蓮實重彦などその典型で、彼は物語というのは類型化を免れ得ず、これとの不断の闘争を通じてしか真の小説は出てこないと解する。彼の言うことにも一理ある。物語はただ人々を引きずり込むだけで、そこから離反することは罪となり、やがては宗教的熱狂にまで高まりかねないからだ。しかしながら、物語を味わうことは依然として心地良いものであって、この小説の如く、ほとんど淀みなく物語が進行しているのを眺めると殊にそのことを感ずる。この場合、その物語に充てられた執筆時間とは無関係だ。なぜなら物語は執筆される前から既に存在しているのであり、問題はそれがいつ〈一〉として「繋がるか」なのだから。
この世からあの世へと「帰ってきた」魂は一旦「粉々に」されねばならず、バラバラの魂の欠片は、「細胞実験の喩えのように同種同士で集まり再構成され、生き返る」、という話は、プラトンの『パイドン』で語られる魂不死説を思い出させる。後者が、何故それぞれの魂が全てのイデアを知っていて、けれども再生する際にはそれらを忘れてしまうのか、といったことの説明が神話という形でしかなされなかったのに対し、前者はそれに物理学的な説明を与えている、という点が面白い。ハイデッガーの時間的存在についての話も出てきており、それが小説内の、パラドクシカルな世界を暗喩しており、小説の最初と最後に登場する、「白き蓮の花のよう」な女性という一致はしかし、時間の不可逆性への反抗、あるいはトポロジー的試みと解することもできる。さらには神についての問答も出てきたりと、読み手を刺激する要素が多分に含まれている。非常に有意義な小説だ。
レビュー作品 空に落ちる
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〈自由な言葉の奔流〉=歴史
投稿日:2016年12月26日
〈言葉〉の奔流、という形容が相応しい。一つの文章が次の文章を生み出し、そこに書かれてある内容は逆に気後れし、躊躇いつつも文章を後追いするしかないという、劇作家とはまるで反対の手法で書かれている。言葉の力強さ、必然的な連鎖が、あらかじめ構想されたものを前提とした執筆では到底実現されることのない、それこそ自由な世界を形作ることとなる。田中美知太郎の著作にもあったが、自由とは、無法地帯を指すのではなく、他から侵害されていないということ、あるいは他の支配から解放されてあることを本来的に意味する。小説は何かこのような自由を謳歌するための一種の装置であり、この小説では、それが見事に実践されていると言える。読み手はこの奔流に呑み込まれる他なく、これを経験したことで、彼もまた自らの手で言葉を奔流させ始めるだろう。それが〈物語〉ではなく〈歴史〉だと言えば、多少怒られることを免れ得るだろうか。
レビュー作品 花火花
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「ぼくは小説というのは(中略)必ず随筆的要素がなければならぬと思う」とは、対談『人間と文学』における中村光夫の発言だ。対談相手である三島由紀夫の、「もし生自体を小説が感じさせることが使命だとすれば、生の偶発性というものを認めなければならない」という言葉もある。『十円玉おじさん』を久しぶりに読み返して、これらの言葉を思い出し、まさにこの小説で実践されていることじゃないかと確信した。数少ない文芸的表現は、装飾としての役割に徹するのみで、見るべきところは、そういう手垢つきの形式の外にある。〈三〉の「もう勤め始めて一月ほどになるが初日から既に嫌になっていて」や、〈九〉の「アビィ・ロードへの行き方をすっかり頭にインプットして」など、およそ随筆的筆遣いがすこぶる面白く、読みやすく、それでいて惹き込まれるという、読んでいて堪らなくなる要素が砂金みたいに散りばめられている。これはおすすめできる。
「僕」が間を置いて出会うことになる女性の各存在が、並行世界的なものによるものでないとすれば、〈今〉という時点での〈僕〉が、女性との出会いを果たすそれぞれの「僕」の基盤としてあり、その〈僕〉というのは、決して停止しているわけではなく、小説の最初から最後に至るまでに最低でも百万年という月日が経過しているわけであるが、それがそれぞれの「僕」を存在足らしめているのだ、ということになる。「三本のロウソク」による異次元的な生が、果たして本当に現実的な時間・空間に存在していたのか、それはあるいは既存の記憶による再現でしかないのではないか、という問題は残るものの。 〈僕〉とは何者か。それはあるいは一人格に限らないものなのかもしれない。「僕」はあらゆる時間を生きることができる。多数の人間が「僕」やその志向対象である女性という共通項によって連続的に語られる、というのは、幻想的な試みで面白い。
まさしく嵐のような
投稿日:2015年12月30日
この小説の読みどころは文章。まさにこの一言に尽きる。 物語なんてあってないようなものだ。 それらは全て、文章のための犠牲となる。文章に覆われる。 嵐と同じだ。嵐とはどこまでのことを言うのか、本当のところはわからない。 わかる者がいるとすれば、それは気象予報士かその方面の教授くらいだろう。 そもそも関係ないのだ。嵐の内実が何であろうと。 嵐という事象が起きたこと自体が衝撃なのであって、中身は問題視されない。強いか弱いか、ただそれだけの話だ。 この小説も、そんな感覚で読むと大変具合が良い。 物語を追おうとすると、たちまち嵐によって体は引き千切られ、精神はずたずたになってしまう。 そのような危険性を孕んでいる。 映像で嵐を見れば何の危険性もないように、できるだけ客観的になることで、安全に読むことができるだろう。 だが、体をずたずたにしてまで得るべき魅力もまた、確実に潜んでいるようにも思われる。
伝説や昔話に潜む毒
投稿日:2015年12月30日
世界にはさまざまな伝説や昔話がある。 そのどれもが個性的で、多少の教訓を含んでいる。 それらの話の効用というのはまさにその部分で、それらは単に物語としても面白いのだけれども、面白いだけじゃなく、聞く者の心を引っかける「毒」を多少孕んでいるのだ。 この小説はそのことを思い出させてくれる。話の構図からして複雑だ。 〈僕〉はお婆の昔話に耳を澄ませる。だが同時にテレビの映像にも目が行く。 両者が同時進行し、奇妙に絡まり合う。 最後にお婆は「サルの遊び」についての不吉な思いなしを語り、昔話は終了する――。 ここには教訓など存在しないように思える。 だが、「毒」は確実に存在している。即効性はないが、あとでじわりじわりと効いてくるタイプのものだ。 最初に読んだときはおやとしか感じられず、すぐに忘れるだろうと思っていた。 だがそんなことはなく、どうしてかこの話が、頭からいつまでも離れないのである。
人が決意し、行動に移すまで
投稿日:2015年12月30日
何かを決意したとする。何でもいい。とにかく何かを心に定め、引き留めたとする。 その場合、決意した彼は、それについて思考し、吟味し、ついにそれに即した行動をする。 その「想念」と「行動」の一連の流れは、人によっては瞬間的なことかもしれない。思いついたことをすぐに行動できる人は確かに存在する。 しかし、「想念」を「行動」に移すまで、多くの人は、たくさんの壁を乗り越え、それこそ無限の海を渡っていくのではないだろうか。 「想念」が高度なものであればなおさらだ。 より高く、危険なグライダーを試みることになる。 この小説ではその危険な冒険が、非常に繊細に、時に大胆に描かれている、ように思う。 これはあくまでぼくの解釈だから、人によってはこの物語を別のものと捉えるかもしれない。 けれどもぼくは、誰かを好きになってその思いをついに告白する、その小さくも大きな心の物語を、少なくともここで垣間見たのである。
物語にオチはつきものだ。 結末如何によっては物語の評価を揺るがすことになる。 無論オチが全てではない。特に他の文学作品を読んでいるとそう思う。 けれども、童話など物語主体のものは、結末部分が重要な位置を占めているだろう。 多くの読者は最後の展開に期待している。 そしてこの作品は、その期待を大きく上回ってくる。 積み重ねてきたものが一気に解き放たれる、とでも言えばいいだろうか? この物語のオチは、ぼくがこれまで読んできたものの中でも随一の出来を誇る。 全体の内容としては、現実と幻想が交差する入り組んだものなのだが、結末部分において、その絡まりは一挙に整う。 というより、整い始めていることに途中で気づき、文章を読むと同時に、絡まりが整いつつあることを楽しむ。 楽しみかつ恍惚する。 そんな忘我の状態を保ったまま、読者はこの作品の最後の一文へと到達する――そんな感じである。とにかく心地良かった。
レビュー作品 Beside
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少女に起きた豹変の「謎」
投稿日:2015年12月30日
面白い小説に「謎」は不可欠だ。 だがここで言われる「謎」は、いわゆるミステリー小説において解き明かされることが決定づけられている「謎」ではない。 その小説を何度も読み返して、それでも一部分しか解明できず、ついに明確な答えの得られないまま読者の潜在意識に蓄積されるような「謎」のことだ。 この小説では、少女の突然の豹変がそれに当たると思う。 語り手である智子は、正隆の旅立つ決意を変えない様子を見て、自身の恋を諦める。それはまだわかる。 しかし、少女がその思いに至った経緯が「謎」なのだ。 どうしてそこに、妹の存在が現れるのか? その部分について、作者様は多くの説明を加えず、読者に解明の余地を与えている。 妹である頼子と、智子、そして正隆。三者の連結が本文のみでははっきり捉えられないようになっているのだ。 そこがおそらく、この小説を魅力的たらしめている要因だとぼくは思っている。
レビュー作品 There's no...
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二重鉤括弧の本当の使い方
投稿日:2015年12月30日
この物語は、基本的に超現実的な話だ。 およそ日常では起こり得ないことが、さも当然のことのように起こる。 その全てが「スーパーワンダフルセレブラテ」という一言に最終的に集約されるのだが、問題としたいのは、これを書くにあたっての技巧だ。 その技巧とは、登場人物の科白を記すにあたり、「」ではなく『』を使った、というものだ。 その意味とは何なのか? 「」は黒い線でできた記号だ。これによって表されるべきものは、登場人物たちがはっきりと口に出した言葉である。それは実体を持ち得る。 だが、その言葉が『』で表されたらどうなるのだろう?  『』も線でできているが、こちらは線によって空白が囲まれた結果成立しただけの空虚な記号に過ぎない。 つまり『』で表現されるべきものは、およそ実物でない虚構のものなのだ。 これの使用が物語と非常にマッチしている。 それがこの小説のすごいところだと、個人的には思っている。