2023年05月04日 (木) 12:12
https://news.yahoo.co.jp/articles/8fae00ec6aadc37d85abbb6cb50ec3a7102b876c
言わんとすることは理解出来なくもないが、支那事変を日中戦争なんて言っている時点で時代と時勢を読み間違える原因だと思うよ。
支那事変は支那事変でしかなく、戦争状態であっても、正式な戦争ではない。正式な戦争ではないという認識の元に各国も判断し、それに対するマインドを示す。
けれど、戦争という認識を持って理解しようとすると齟齬が生じる。その齟齬が、当時の世界を読み違える原因になる。
援蒋ルートだってそうだ。
正式な戦争状態ならば、当時の国際法では蒋介石への援助は出来ない。けれど、英米はこれを支援していた。何故か?正式な戦争状態ではないから武器弾薬の輸出などで制限が緩かったためである。
ある意味では大日本帝国と蒋介石政権の談合が行われた戦争状態が支那事変だ。そのため、大東亜戦争開戦に至るまで両国は正式に宣戦布告をすることなく戦争状態を継続していたのだ。
これは両国が戦争状態だと公式に宣言しないことによるメリットを最大限受けるために敢えてそうしていたためであるのだが、日中戦争という呼称と認識をした場合、そういった部分を見逃す結果に繋がる。
仏印進駐も同様だ。
表向きヴィシー政府との外交結果によって平和裏に進駐し、それによって援蒋ルートの閉鎖を狙ったのも正式な戦争状態ではないことからだ。
日本側にとっては援蒋ルートの封鎖という現実的要求、ヴィシー側にとっては英米の圧力回避という現実的要求、これらが下地にある。
しかもヴィシー政府は当時非常に微妙な立場にあって、枢軸国からは旧敵国扱い、連合国からは寝返った裏切り者でありつつ亡命政府の喪失領土という扱い。
特にヴィシー政府の視点から言えばド・ゴールみたいな反乱分子が連合国に取り入って反旗を翻し、植民地もド・ゴールに従うか連合国の圧力でヴィシー本国から離反する動きを見せていた状況である。そういった状況下で日本の軍事力を利用して仏印の安定を望むのは選択肢としてありだろうし、日仏の合意出来る内容だった。
表面的に場当たり的に見えているかも知れないが、その時の時勢に合わせた選択をしたり状況判断をしたことはそこまで否定されるモノではない。
日米は対立を深め、対決していく流れになっていったが、そもそもとして、日米戦争を目標に何かをしていたわけではなく、個々の事案に対処していただけで、結果として日米開戦に至ったということに過ぎない。
考えてみればわかるが、日本側からアメリカ権益を積極的に侵害した事実はない。ただし、アメリカ側の視点では日本を含む列強がラスト・フロンティアを切り分けていくことに強烈な不満があった。そして、日露戦争においても満州権益という分け前を得ることが出来なかったことでラスト・フロンティアに橋頭堡を築くこと叶わず、一方的に反感を抱いている。
また、当時の大統領であるルーズベルトは母方が支那権益を有して巨利を得ていたことから尚更敏感であり、蒋介石との距離も近かった。
要するに日本はアメリカ相手に何かするつもりはなく、逆にアメリカは隙あらば日本を出し抜くつもりであった。そういう意味ではタイトルの準備の差があるのは当然のことではある。
しかし、これまたよく考えて欲しいが、日本は高橋是清財政によって概ね大恐慌から脱していたのに対してアメリカはニューディールというまやかしでも立ち直っていない。
ビンソン案などで海軍拡張に動いていたけれども、その新戦艦、新空母が登場するのは42年後半から43年のことである。よって、準備云々というのは何か話が違うのではないだろうか?
単純に国力というチートな力技と言うべきだろう。
日本帝国悪視点
専攻が経済学部だと現代経済分析もアレだから80年も前の資料収集もお察しと
いつもの結論優先からのつまみ食い(偏見)