2012年07月05日 (木) 22:09
お待たせ致しました、気付けば大ボス・赤城修二の番外編です。
読みたいと言う方のリクエストにお答えして、赤城視点を書いてみました。
まあご想像の通りですが、結構痛い男です、赤城。彼のお陰ですっかり影が薄くなってしまったきよたんです。
最終話を書いている際、「あれ…きよたんとあゆはモブキャラ…?」と思ってしまいました。間違いではない思考にがっくりです。
作品として上げる時は裏に上げます。
そしてエロ場面はないです、はい。ごめんなさい。
ただ大ボス赤城は避け、きよたんは確実に当て馬化させます。こいつは一辺死んで来い!並に悪役にし、あゆもあゆで略奪女のバカ女にしたいと思っています。
そして怜子は菊一文字や長曾祢虎徹並の日本刀並に、切れ味の良さアップ予定。
ええ、赤城さんは元々ヒーローだったんですもの。起動修正なんて屁のカッパですよ!
とは言え、これまでの作品としてのきよたんモブ化で完結しておりますので、これはこれで。
赤城修二視点です。
結構痛め。
* * * * * *
「薄汚い男の子供なんて、私はいらないもの」
嘲笑を浮かべ辛辣な言葉を吐いて。
それでも泣きそうな顔をしていた君の顔を忘れられない。
俺の母親は、元々は普通の主婦だった。少なくとも俺が小学生低学年のころは。
物静かな父に世話好きで話好きのどこにでもいそうな、だけど美人な母。頼りになるくせに、やけにつっかかってケンカばかりしていた兄。裕福とまではいかないまでもごく普通のありふれた4人家族だったのだが、父親が若くして亡くなったのをきっかけに全てが変わった。
父の病名はガン。進行が早く、異変を感じて病院に行った時にはもう手遅れだと言われ、わずか2ヶ月後に亡くなった。
たった2ヶ月の間でも父にかかった治療費は高額で、下りてきた保険金はほとんどそれに費やされた。これから成長していく息子2人をかかえた母は迷う事無く夜の仕事へと駆け込んだのだが、それが悪かった。
美人で気立てのいい母は俺達兄弟の密かな自慢だったのだが、それが仇となったのか、たちまち母はクラブで人気になり、それをとある大企業の社長に目にとまったらしい。
その男が母に何を持ちかけたか子供にはわからなかったが、それまで母はどんなに遅くとも(朝方になろうとも)安アパートに帰って来ていたのに、ある時を境にちらほらと外泊するようになったのだ。
ガキ2人に「適当に何か買え」と金を置いて出て行き、それから帰ってこなくなった母。流石に1週間と空けることはなかったが、ほとんどそれに近い状態だった。
今で言う、育児放棄(ネグレクト)だとわかったのは随分後の事。まだまだガキだった俺は何故母が帰って来ないのか、母の手料理が食いたいと、よく兄に言ってはケンカした。その頃の兄は愛人云々の事はわからなかっただろうが、母が帰って来ない大体の事情はわかっていたのだろう。駄々をこねる俺を叱り付けては「お母さんは男が出来たんだ」と言うだけだった。
そうした生活を1年ほど続けたある日、俺は兄貴と共に養護施設の前に捨てられた。
実の母親の手によって。
赤城家に養子で貰われる前まで3年間ほど世話になった施設の事で、覚えていることはない。
母に捨てられた言う事実は自分で考える以上に精神的ストレスを与えたようで、半年ほど失語症になったというのもある。ようやく話せるようになっても、兄以外と会話らしい会話をした記憶は無い。まあ良かった事と言えば、失語症にかかっていたおかげで児童相談所の大人に深く追求されなかったことくらいだろう。
当時通っていた学校でも『あの母親に捨てられた』という、保護者や教師達が話しているのを聞いた子供達からあっという間に広まり、例の如くイジメられた。ガキのイジメは悪辣で、大人にわからないようにやるから性質が悪い。無視から始まり、因縁、噂話、暴力。
『赤信号、みんなで渡れば怖くない』という集団心理が働いて、見事なまでに総攻撃を受けた俺。兄も同様だったらしいのだが、兄は同級生よりも身体が大きかったせいもあってあっという間に返り討ちにしていたようだ。
そんな学校生活と味気ない施設生活を送っていた俺達兄妹に光が差した。なんと俺達2人を養子に貰いたいという、奇特な夫妻が現われたのだ。
彼等夫妻は俺等がいた施設に資金援助を行っていたようで、その際俺と兄を気にかけていてくれたらしい。異例の事だが兄弟2人を引き取るというのはなかなかないようで、引き離されるよりはマシかと思い、特に何の感慨もなく赤城家に養子として引き取られた。
養父母は優しいのに辛抱強く、内に引きこもりがちになっていた俺に対して根気良く接してくれ、荒んだ境遇ですっかりグレかかった兄にも真っ直ぐ向き合ってくれた。
お陰でようやく普通に笑えるようになった俺と、少しだけ丸くなった兄。
今でも養父母にはとても感謝している。
養父は国立大学の教授で、養母は元客室乗務員。
裕福だった彼等のおかげで、諦めていた…と言うより考えてもいなかった高校進学も果たせたし、大学にも行かせてもらった。
高校・大学で俺達兄弟は2人とも、世話になっている養父母の恥にはなりたくないと懸命に勉強し、スポーツにも励んだ。おかげで兄は高校時代、歴代第一位の得票率で生徒会長に選出、卒業するまで人気の会長だった。俺もサッカー部のキャプテンでチームを国立に連れて行くなどして、公私共に充実した毎日を過ごすことになった。
大学でも同様。資金面を気にしなくてもいいと養父から言われていたのもあって、兄は大学卒業と共にアメリカに留学し、MBAを取得。そのまま現地の大手投資銀行に就職した。俺もアメリカに短期留学をし、そこでフランス語とスペイン語を習得、そこで得た語学力を生かしたいと思い、激しい就職戦線に勝利して商社へと入社を果たした。
養子にした2人ともが有名企業に就職したのを喜んでくれた養父母の顔を見るのは単純に嬉しかったし、亡くなった父の墓前にも報告しに行った。
ただ、俺達を捨てた女のことだけは許せるはずもなく。養父が探してあげようか?と言ってくれたこともあったのだが、逐一ちゃんと断った。それは兄も同様だったらしく、「今更会ったとしても殺したくなるだけだ」と、俺と同じ事を考えていた。
就職してから目まぐるしく年月が過ぎて行った。
仕事が面白かったこともある。毎日が忙しいのに、やりがいのある仕事をしているおかげで充足感が半端ない。新人時代は仕事を覚える事に夢中だったから飲み会などに参加しても持ち帰りとかする気はなく、それでなくとも大学時代に付き合っていた彼女とは「忙しすぎる」というありがちな理由で別れたばかりだ。
ただ無駄に整った顔のおかげで性的欲求を解消する女はいくらでも寄ってきたので、束縛しないであろう面倒くさくない女と適当に遊んでいたのだけれど。
後輩が入って来た時、その中で一際熱心なやつがいた。それが鈴木清仁だった。
新人研修で群を抜いて優秀だった鈴木の教育担当になった時、正直面倒だなと思った。だがまあ、仕事だしな…と一線を置いて接していたのだが、思いのほか彼は飲み込みが早く、偉く野心的だった。
「俺、出世したいんです」と臆面もなく話す鈴木を面白いと思って俺のスキルを惜しげもなく与え、まだまだ甘い脇を固めてやったりと、いつの間にか鈴木のことを教え甲斐のある部下だと一目おくようになる。
また、鈴木に触発された俺も『こいつには先輩としての威厳を見せつけるのだ』という、何ともライバル心じみた事も思い、それまで以上に仕事に打ち込んだ結果、気付けば営業トップ。
上司からは課長の座も遠くないと暗に言われ、女達からの秋波も格段に上がった。
だが自分でも自覚しているのだが、無駄に整った割りに己の目が冷たい。
この冷めた目によって寄って来る女は数を減らし、完全に遊びと割り切った口の固い女だけが残る。そうなると彼女持ちではないと噂されるのも早く、面倒なので「決めた人がいるんだ」と言うに留めると、余計な女は寄って来なくなったので一安心だ。
ただ俺も30間際になり、養母から「そろそろ結婚しないの?」と遠慮がちに聞かれることも多くなって来た。
兄は既にアメリカで家庭を持っている。年に何回か帰国してくるときに会うだけの義姉は、スパニッシュ系の豊満美人だ。同じ職場でそう言う関係になり、そのまま結婚したと後で聞いた。まさかデキ婚かと思ったのだが、そうではないらしい。喜怒哀楽をはっきりと表し、自己主張をしっかりとする典型的な外国人女性で、直情的だけれど思慮深い行動派の兄にはお似合いだ。
そんな兄夫妻の事を好ましく思っている養母の目下の標的は、日本にいる俺。
養父も「そろそろ孫が見たいなぁ」なんてのほほんと言っているし、それを聞いた養母は「私男の子でも女の子でもいいわぁ」といたく乗り気だ。
だが、俺は結婚をする気はないし、子供も持つ気はなかった。
幸せな夫婦の養父母には悪いが、俺には長くなるであろう結婚生活を送るだけの意味を見出せ無いし、それでなくとも俺に近づいてくる女は打算だらけで食傷気味だ。
子供に至っては子供嫌いであるというのもあるのだが、自分の子供時代を思い返してみた時に決して幸せではなかったと言える。そんな子供時代を過ごした俺が例え自分の子供を持ったと仮定してみても、想像がつかない。
よく虐待を受けて育った子は、自分の子供が産まれた時に同じ事を繰り返す。などと言うけれど、多分それに近い事がおきるのではないだろうか。
振り回すと解っているのに刃物を与える愚か者はいないように、虐待するかもしれないと思っている人間(おれ)に子供を持つ資格はない。
だから結婚もしないし、子供もいらない。
そう思っていた。
あの時までは。
施設に入るまでのさわりが、すごく痛々しくて悲しかったです。続きを密かに待っています。