2015年08月23日 (日) 10:27
越南の歴史文化を舞台装置としてお借りしてます。実際の歴史とは一切関係ありません。
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タンロン(昇竜)城の通路を颯爽と歩くのは堂々たる偉丈夫である。漆黒の髪は後ろで簡潔に縛り、頬から顎にかけてのがっしりとした線をさらす。足を踏み出して風を切るたびに黒の長衣の四つに分かれたすそが後ろになびいた。
この偉丈夫、フイン・アン・コアット(黄光闊)は王国の禁衛隊の一人であった。王族を護衛する禁衛隊は王城の奥深くまで入る許可を得ている。コアットは王の住居である燕寝に入り、月明殿の一角に歩を進めた。月明殿は彼の仕える公主の暮らす宮殿である。
大きな扉の前に立つ儀仗兵がコアットの姿を認めて姿勢を正した。
扉が開かれ、中の侍女が取次をして公主と対面できる。居住空間の公主は椅子に座り卓に肘をつきくつろいでいた。薄紅色のアオッタンと呼ばれる長衣は赤と金で鳥の刺繍が施されいる。
卓の上には茶器が並べられ、薫り高い茶が白磁の器に注がれている。そばには果実を干して砂糖漬けにした菓子も皿の上に美しく並べられていた。
結い上げた黒髪に大きな桃色の花を飾る第五公主ホン・ダオ(紅桃)は、御年13歳。あどけないながらにも正妃譲りの美貌を持ち、桃の花のようと称される公主である。
公務の場ではないので叩頭礼ではなく石畳にひざまずき、臣下の礼をとる。
「お呼びにより馳せ参じてございます」
うむ、と公主は鷹揚に頷いて見せると、室内にいる側仕えの侍女たちを指先で追い払った。人払いをするとはただ事ではない。コアットは気を引き締めた。
「アン・コアット」
「はっ」
「惚れ薬を持って参れ」
思わず顔を上げて公主の顔を凝視した。西方部族出身の公主の母は鼻筋が通り、肌の色が白い。公主もそれを受け継いで色白の顔をしている。つややかな頬がほのかに上気して血色が良く、今日も健康そうでなによりだ。
「……惚れ薬、ですか?」
まるで夢物語のようなことを聞いた気がして、コアットはひとまず聞こえた通りの言葉をおうむ返しにしていた。公主は頬を薔薇色に染めて頷く。
「速やかに探し、持って参るのじゃ」
公主の命に否やはない。コアットは袖口を合わせて高々と掲げた。
「仰せのままに」
*
自室に下がったコアットは寝台の上で公主の命令を反芻していた。
なぜ惚れ薬を欲しているのか。下命を問うことは臣下のすべきことではない。命令されれば遂行し、あるじの真意を慮り先んじて行動するだけだ。
公主には思い人がいるのだろうか。コアットは公主が今よりも幼い時から護衛をしているが、そのような人物に心当たりはない。
公主が進んで動こうと思わせる人物に思い人がいるのか。公主自ら動こうとする相手は限られる。公主の同母兄、皇太子殿下か。皇太子殿下に思い人がいるならばそちらの禁衛隊に探りを入れる必要があった。
人払いをするくらいなのだから秘密裏に探らねばならないし、探さねばならない。
寝返りを打つと寝台が軋んだ音を立てた。
早朝、身なりを整えたコアットは月明殿の公主のもとへ行く。扉の前で待機し、そのあいだに門兵と雑談を交わしながら昨夜異常がなかったかを確認する。しばらくすると扉が開いて薄紅色の長衣を身にまとう公主が出てきた。
王のところへ行き、朝の挨拶を済ませる。王の隣に王妃がいなかったので、王妃の宮にも向かうと、皇太子一向とすれ違った。中原の部族出身の母を持つ皇太子は一重の切れ長の目をした龍相と言われる美丈夫である。鍛えた身体は黒い装束からでも分かる。若い娘が皇太子に夢中になっていた。
翌日の勤務が終わり、鍛練も終わってコアットはあいた夜の数刻を探索に費やすことにした。皇太子殿下については後日、時間を見繕って殿下の禁衛隊にさり気なく確認するつもりだった。
ひとまずは惚れ薬だ。薬と名がつくのだから薬を扱う者に訊ねてみるのが良いと判断し、あらかじめ訪問を告げていた宮廷治療師団長を訪問した。
木の扉をあけると何種類もの乾いた草のにおいがコアットの鼻を直撃した。苦く酸っぱくかび臭く不自然に甘いそれらの臭いは、慣れないものの鼻呼吸を妨げるものだった。コアットは薄く口を開いて静かに口呼吸に切り替えた。
集賢殿の一角に治療師団室が設けられている。
奥まった部屋の扉は草の絡まる意匠が彫られている。宮廷治療師団長の部屋だ。高齢の治療師団長は
どこで惚れ薬を手に入れたらよいか困ったコアットは宮廷治療師団長に相談した。
治療師は白いあごひげをゆっくり撫でつつ長いあいだ黙考していた。あまりに長いあいだそうしているので、コアットはひげを撫でる手が止まるたびに寝ているのではないかと心配になった。
いいかげん声をかけてみようかと思っていたところで、治療師がのっそりとしゃべりだした。
知らぬ、と。
うなだれて帰る。国一番の賢者と名高い宮廷治療師団長が分からないのだからもう誰も分からないのではないか。いっそのこと今度は国一番の愚者を探して訊ねてみようかとなかば自棄になりながらの道中、見習い治療師とすれ違った。
ずいぶん顔色が悪いと言われ、げっそりと首を横に振る。捜索はまだ始まったばかりなのだ、これくらいで疲れるようでは先が思いやられる。
悩みがあるなら話してみると楽になりますと見習い治療師は言った。明るい笑顔で言われ、コアットはほんの少しの望みをかけて見習い治療師に訊ねた。惚れ薬、ということはぼかして特殊な薬と言い換える。
見習い治療師は、それなら、とにこやかに答えた。「治療師長さまに訊ねられては?」
落胆しつつ頷いた。悪気があるわけではないのだ、国一番の賢者に訊くのがもっとも良い回答であるだろう。
落胆したコアットに、自分の回答が期待外れだったと悟った空気の読める見習い治療師は、あとは、と続ける。
「城下町の占い師に訊いてみるとかですかねー」
藁にもすがる思いでコアットは城下町に出かけて行った。
あらかじめ見習い治療師に訊いていた場所は飲食店の奥であった。そこの常連長居客がくだんの占い師である。ふつうなら長居客は店から嫌われるものだが、占い師目当てにくる客が結構な金銭を店に落として行くらしく不問になっているらしい。常連と言っても毎日訪れているわけではなく、占い師がいない日に来たものは礼儀として飲食を注文していくそうだ。
なお、占い師の見立て料はおもに占い師の食事代であり、占い師の腹がくちくなっていると占ってもらえない。
正攻法で行っても日頃から占ってもらおうと機会をうかがう者たちに勝てるとは思えず、コアットは少々卑怯な手を使うことにした。
曲がりなりにも禁衛隊にまで上り詰めた身体能力を使って、占い師を見張る。いままでも占い師がどこに住んでいるのか探って家に押しかけ占ってもらおうと思った輩はごまんといるが、だれも成功した者はいないともっぱらの噂である。
実際、跡を付けてみると占い師は数回変装をしながら人ごみにまぎれるので骨の折れる作業だった。しかし骨格や身ごなしで人を見分けられるコアットは、数日に分けて尾行を繰り返すことでとうとう占い師の住処を突き止めることができた。
城の宮廷治療師が住む一角で、コアットはいつかの見習い治療師を見かけた。見習い治療師はコアットを見つけると、にこにこと人のよさそうな笑顔であいさつした。
「治療師長さまのところに行かれるのですか」
コアットは首を横に振った。
「占い師殿に占ってもらおうと思ってな」
見習い治療師が笑みを崩さず不思議そうにコアットを見上げる。そのまましばらく見つめ合って、先に反らしたのは見習い治療師のほうだった。
「降参です。ぼく面と向かっての化かし合いは得意じゃないんだ」
「では占ってもらえるか」
「ここではちょっと。今夜、月が中天にかかるころ、ぼくの部屋に来てもらえますか」
宿舎の場所をきいて、コアットは見習い治療師とわかれた。
月が中天にかかる少し前、コアットは宿舎の一室を訪ねた。夜も更けていたが宿舎は人の行き来が激しく、本来宿舎の住人ではないコアットがいても誰も気に留めないようであった。
手土産のキッシュを渡すと見習い治療師ホアスーは顔をほころばせた。
「見料は食べ物だったろう」
「そうだね。でも別によかったのに。占いはただの趣味なんだから」
テーブルの上に散乱している書類を大雑把な手つきでまとめ、見習い治療師が椅子に座るよう促した。入れ物から円盤型のキッシュを見て歓声を上げる。女騎士たちのあいだで評判の良い総菜屋はほうれん草とチーズのキッシュが一番の人気である。そのほうれん草とチーズのキッシュを皿に盛った見習い医療師は、ポットから茶を二人分注いでテーブルに置いた。
狭い室内は簡素なベッドと壁いっぱいの本棚と、小さなテーブルが置いてある。そこに大柄なコアットが加わるとひどく手狭に見えた。
「早速だが」
「早速だね。まあいいや。ぼくは何を占えば?」
「探しているものがある。それはどこに行けば手に入るのか占ってほしい」
キッシュを勧められて手でいらないと示す。見習い治療師が口を曲げてコアットを睥睨した。
「探し物ならもうちょっと具体的に言ってもらいたいな。試されているみたいで不快だよ」
コアットは一瞬考えて口を開いた。
「探し物は惚れ薬だ」
具体名を言うことで精度が高まるならば隠すほうが不利である。たとえ見習い治療師がどこかでこのことをしゃべったとしても、コアットが惚れ薬を探していると言われるだけだ。ここで余計なことを言わなければ、公主の命令だとは気付かれないだろう。
惚れ薬といういささか突拍子もない単語に、片眉だけ上げて見習い治療師がうなずく。片手には六分割されたキッシュの一片、歯型付き。口いっぱいに頬張ったせいで返事ができないのか、ただうなずいた。
「さっそく占ってみよっか」
大きな口を開けてキッシュを一片かたづけると、見習い治療師は立ち上がり、振り返りながらさりげなく服で手を拭いた。コアットは眉をひそめ、待て、と引き留めてポケットからハンカチを出した。
「これで手を拭きたまえ。服で拭うよりは断然清潔だ」
ぴしりとアイロンがけしてある木綿のハンカチを受け取って、見習い治療師はありがたく手を拭いた。
見習い治療師がベッドの前に立ち、枕の下に手を入れて何かを取り出した。テーブルに置くと、それはカードの束であった。
ざくざくと手慣れた調子でカードを切る。テーブルの上に広げてシャッフルし、まとめて今度は扇状に広げた。
「好きなの一枚取って」
一番上のカードを抜き取った。見習い治療師がカードの図柄を確認する。
「探索で禁衛隊どのに必要なのは、時間……だね」
分かり切ったことを言う。何事も時間が大切だ。無駄に浪費して良いことは何一つない。
残りのカードを上から順番に並べ、ふむとうなずいて見習い治療師が口を開く。
「治療師長の奥方が持ってるって出た。信じる?」