2014年02月28日 (金) 06:19
31話と32話のあいだの話です。
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夕刻に戻った玖鏡は文を受け取ると、焦る指ももどかしく折り畳まれた紙を開いた。
上手とはとても言い難い筆跡はしかし、丁寧に書こうとする意志が見えて好ましい。
文は手紙の部分が無く、歌が一首書きつけられていた。
歌を目で追い、何度か読み直して知らず口角が上がる。
夜の雪は月の光が雪になって降っているのですね。そんな意味の歌だ。手紙が無いので歌だけで判断しなくてはならないのだが、雪の意味するところが不明であった。
「こは甚だ難(かた)し……(これは難易度が高い……)」
歌を苦手とするかたが自分のために詠んだというだけでも歓喜する歌の意味を探る。それは玖鏡に向けられた心に触れる行為とも言えた。
昨日の歌などは深読みすればひどく官能的な内容であった。無論、そのような意味を持たせているのではないと分かっている。普段の言動から想起される意思や考え方をもとに、歌の真意を探るのは楽しかった。
そして今日の歌は難問である。なにしろ関連が見えないのだ。
思案する玖鏡に、文を持って来て控えていた女房が畏れながらと礼を取った。目視で続きを許す。
「文を持ち参りし北の長官の君が申さく……(文を持って参った北の長官(かん)の君が申しておりましたのでございますが……)
」
北の女房たちの長官である瓜連は文を持って来たものの、肝心の玖鏡が不在であった。しばらく待っていたが玖鏡はなかなか戻ってこず、南の屋の女房に文をあずけ、言付けをして北の屋に戻ったのだった。
「北の御方の一昨日こちらに御座しましける前に書き置かれし歌とおなじきと(北の御方が一昨日こちらにおましの前に書かれていた歌と同じ、と)」
「一昨日の御座しましける前か。髪削がれたるのちに詠みしと(一昨日のおいでの直前か。髪を切られたあとに詠まれたと)」
玖鏡の言葉に然りと返る。
では、と思案する。この歌は事前に用意されていた。にもかかわらず実際に贈られたのは昨日ではなく今日。
二日間の違いといえば、肌に触れたか触れなかったかであろうか。
ことを成したのち贈る歌を事前に用意しておく。歌を苦手としているならばそれもあり得る。
金釘流の手に目を落とした。雪の字の上でとどめ、手にした扇を親指で開き、閉じる。
しっくり来ないのだ。今は秋、雪の字がどうしても浮いている。それならば逆に雪でなければならなかったと考えたほうが筋が通るのではないか。
玖鏡はこの歌が詠まれたという日を思い返した。
北の屋に住まう佳き人が髪を切った日だ。
玖鏡も屋敷の者もすべてが間子を失うと思っていた。しかし宵に現れた間子は、出会いのころからやり直したいのだと言い、髪を切ったのもその頃の長さにしただけだと執着なく述べた。
これまでのことを無かったことにしたい訳ではないとはっきり宣言したので、何らかの区切りをつけたかったのだろう。
髪を切って歌を詠んだという順序が正しいとすれば、出会ったころに詠むべきだったということか。
そこで玖鏡は歌をもう一度注視した。
――くれたけの夜のみ降れる白雪は照る月影の積もるなりけり
くれたけの、という語に脳裏をよぎるものがあった。
初めて間子に贈った歌にこの語が含まれていた。これまで数多く歌を詠んできた中でも、初めて間子に贈った歌だけに思い出深く記憶に残っていた。およそ想定されただろう時期も合っている。
――夢かよふ道さへたえぬ呉竹のふしみの里の雪の下をれ
夢で逢いたかったが雪の重みで折れた竹の音で目が覚めてしまった。夢路を渡ろうとして竹の音に邪魔されたのだ。
もしやと考える。もしや、この歌への返歌か。
玖鏡は視線を部屋の入り口に向けた。視線を受けた女房は下命を待つ。
「かの人如何なる気色か聞き敢えるや(あのかたはどのようなご様子だったか聞いているか)」
「あ。御方戻りてやがて寝所に籠り居、何れも寄せたまはず。文も人追ひたまひたりて書かれり。例ならずわたらせたまひしと(はい。お方さまは戻られましてすぐ寝所に籠られ、誰も近づけようとされません。文も人払いして書かれたとのことです。体調がすぐれないご様子だと)」
どこか咎めるような女房の眼差しは黙殺した。
普通ではない間子の様子を聞き、玖鏡は立てた仮説が正しいような気になった。
おそらくは後朝の歌を考える余裕がなかったのだ。それで先に書いていた歌を流用したということなのだろう。その心境は如何ばかりか。身体の調子も悪いというのが、そのように見えたのではなく真実である可能性も考える。
では今宵いらしたときはおとなしく側で眠るだけにし、安らかに静養していただこうと心に決めた。幸い先ほどまで駆け回って劣情を昇華している。
女房が「然りければ(そういうことで)」とさらに言葉を続けた。
「今宵通いたまはざりけり(今宵のお渡りはされないそうです)」
玖鏡はぴくりと眉を動かした。何度も読み返した歌に目を落とす。
今宵は来ない。その知らせは歌の別の面を浮かび上がらせた。
夜降る雪は月明かりが変じたもの。それは月明かりがなければ雪も降らず、竹も折れることは無かったのだと言っているとも取れた。そして今宵は朔、月明かりのない闇夜である。月明かりが雪に変じることも、雪の重みで竹が折れることもないので、通う道が途絶えることはない。
「げに甚だ難し(本当に難しい)」
玖鏡は閉じた扇の先を額に付けて考え込んだ。
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二つの歌がセットになると、間子の歌は「月が無い夜に来ればいいのに」とも読めてしまう、という話。