2014年05月08日 (木) 20:54
泣き崩れる女に、尼僧たちは痛ましげに顔を伏せた。
女はある貴族の子を身ごもっていた。女が仕えていた屋敷に滞在した貴族の手が付いたのだ。身ごもったことが分かると女はそのことを誰にも言わず暇乞いをした。
身を寄せていた女の実家が出火し、命からがらに女は逃げ出すことができた。だが助かったのは女だけで、すべてを失った女は日に日に大きくなる腹を抱えて流浪し、この尼寺にたどり着いたのだった。
尼寺で出産した女が生まれた子と暮らしたのはほんの数日。
ある朝、女の子供は冷たくなっていた。
涙も出尽くし抜け殻のようになっても女は亡骸(なきがら)から離れなかった。尼僧が女の背をやさしくさする。
「あなたのお子は私どもがきっとねんごろに弔って差し上げましょう。だから、もう……」
聞こえているのかいないのか、女はぴくりとも動かず子を見つめるだけだった。
胸が張り、飲ませるあてのない乳を搾る。女にとってそれが辛かった。皮肉なことに女は乳の出が良く、子を弔ってからほとんど食べないのにたっぷりと乳が出る。そのため、みるみるやつれて幽鬼のようになっていった。
碗の中に白い乳がなみなみと溜まると、中身をこぼさぬようそっと両手で持ち、外へ出た。一人の尼僧がそれに付き添う。
女はふらつく足をゆっくり踏み出して歩き、真新しい土饅頭の前まで来て土の上から乳を回しかけた。
放っておくといつまでもそこから動かなくなる女を尼僧が促して、来た時と同じようにゆっくりと歩む。女は空になった碗を大事そうに胸に抱え込んだ。
戻った女に別の尼僧が寄り添う。背に腕を回して支えてやり、寝床に筵(むしろ)を敷いて座らせた。
薄い粥を勧められたが女は首を振った。無理には勧めず尼僧は粥の入った碗を置いた。女はうつろな目を中空に向けてぼんやりとしている。魂が抜けてしまったかのような女を尼僧は憐れんだ。このままでは遠からず命を落としてしまうだろう。なにか一つでも拠り所が出来れば、生きる気力が戻るかもしれない。
尼僧は女の腕をさすった。
「ねえ、あなた」
尼僧はゆっくりと語りかけた。
「乳母を探していらっしゃるかたがいるの。母君は、お乳の出があまりよろしくないらしいのよ」
女はのろりと顔を動かしてうつろな瞳を尼僧に向ける。尼僧は慈愛のまなざしで視線を受け止めた。
「どうか。そのお子を、助けてあげて」
女はゆっくりと瞬いて眉尻を下げる。外が気になるようで、顔は尼僧に向けていたが視線は外れて遠くに焦点が結ばれている。うつろに視線を中空でさまよわせるのではなく、目的を持って遠望している。
「でも」
小さな声を出した。尼僧は女の言葉に耳を傾ける。
「でも、私がいないと……お乳が……。あの子がお腹を、すかせてしまいますから……」
女の視線は、子の眠る墓に向いているのだ。尼僧は目もとを和ませた。
「あなたは優しいかたね」
女は眉尻を下げておろおろと外と尼僧を見比べるばかりだった。
*
女は使いの者に連れられて、その地の郡司の屋敷に入った。屋敷の北側の建物に通され、屋敷の女あるじと対面した。女あるじは赤子を抱いていた。
「尼僧さまの伝手ならば間違いはないと思うが、そなた口は堅いな?」
女あるじは女を値踏みするようにねめつけた。女は畏まり肯定する。女は別の土地の豪族の屋敷で女房を勤めていた。その経験から、守秘は心得ている。
「ならば良い。赤子の世話をすれば、私の言いたいことがおのずと分かるでしょう。誰にも漏らしてはなりませぬ」
女あるじは不安とも哀憫ともとれる表情で赤子を見つめると、女に手渡した。
赤子を渡されて女は恐る恐る両手で抱いた。赤子はふにゃりとして温かく、赤子特有の甘ったるい匂いがして胸が震えた。
子に乳をと促され、さっそく乳を含ませると赤子は飢えていたのかよく飲んだ。込み上げる愛情と裏腹に、自分が産んだのではない赤子に乳を与える行為は自分の子を裏切るような後ろめたさがあった。
赤子を見つめる女は、女あるじがどのような表情で女と赤子を見つめていたのか終ぞ気づくことは無かった。
おくびをさせると女あるじは赤子を預けたまま女を下がらせた。
女と赤子に用意された部屋は北の隅だった。狭い部屋であるが必要なものは揃っている。頻繁に乳を与える必要のある赤子の世話をするため、赤子は女あるじのところではなく女と一緒に生活をすることとなった。
赤子の立場もある程度は把握している。この屋敷のあるじである郡司には前の妻とのあいだに儲けた娘が二人おり、この赤子は三番目の娘となる。名も聞いた。
「さあ三姫さま、湿しを換えましょうね」
寝かしつける前に襁褓(むつき。おむつ)を換えておこうと、巻かれた襁褓を外して女は首をかしげた。
赤子は姫と聞いていたが、これは……?
男児を女児として育てることが秘密なのだろうか。
疑問に思いながらも世話を続ける手が止まった。女は目を見開いて赤子を凝視した。
見開いた目が水気を帯びる。下まぶたのふちに透明なしずくが盛り上がって、しずくは赤子の腹に落ちた。ほああ、と赤子が泣きだす。
「ああ……ああ……、ごめんなさいね、冷たかったでしょう。すぐ湿しを換えて差し上げますよ」
襁褓を取り換え、女は赤子を抱き上げて胸に抱きしめた。
「ここにいたのね。私の子たち」
女の産んだ子は、普通の赤子の半分ほどしかない小さな小さな男女の双子であった。
あの子たちが生まれ変わって再び自分のところへ来てくれた、そうに違いないと女はあふれる涙をそのままに赤子を抱きしめた。
----------
続きが書けたら筆染白狐余話の「桧原の女君」の次に割り込み投稿します。