(仮)35話
2024年10月14日 (月) 12:54
(仮)35話『タイトル未定』視点:夏妃

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 松田さんは自分のオフィスだなんて気楽に場所指定してくれたけど、本社ビルの中を歩くことなんて想定していなかった私は、チェックのフランネルシャツにジーンズとすごくカジュアルな格好だ。YAMATOの社員さんは基本的に皆スーツ着用だから、私だけ完全に浮いている。

 それでも普通の容姿だったらまだマシだったかもしれない。けれども姫香の顔立ちはどれだけ大勢の人間の中でも埋もれることがない。行き交う人々に興味津々の視線を向けられ、食堂で話したことのある社員さんからは親し気に話しかけられる。向こうはこっちを認識しているけど、大勢の社員を一度に相手にしている私には、まだ彼らを個別に識別することはできない。

「姫香ちゃん、どうしたの?」
「こんなとこで何してんの?」
「迷ったの?」

 田中さんのおかげで九頭からはなんとか逃げられたけど、食堂で名前を聞いてきた一部の社員にはきちんと答えていたため、九頭に名前を知られるのも時間の問題だろう。

「松田さんに呼ばれたので」
「松田さん……?」

 私が松田さんのオフィスに向かっていることに怪訝な顔をしていた社員さんたちは、すぐに「ああそうか」と腑に落ちた表情になる。私たちにとって松田さんは、社食の担当者だ。だけど社員さんたちのなかでの松田さんは、社長秘書としての立場の方が先に思い浮かぶのだろう。

「社食の話?」
「そうだと思います」
「案内しようか?」

 ビジネスカジュアルとも言えないラフな格好でも、姫香の顔面力のおかげで男子社員は大歓迎のようだ。けれども遠巻きに見ている女子社員は、こちらの騒ぎに眉をひそめている。面倒なことになる前にと、申し出を丁重にお断りする。

「ありがとうございます。でも大丈夫です」

 松田さんのオフィスは最上階にあるらしいので、そそくさとエレベーターに乗り込む。狭い箱の中でも注目を浴び、居心地悪い思いをしながら最上階に着くと、すぐ目の前にカウンターがあった。そこに座る生真面目そうな男性が、じろっと私を見てくる。

 姫香の容姿ならば大抵の男の人はポーっと見とれたような表情になることが多いけど、この人はそういうタイプじゃなさそうだ。それどころか少し不機嫌に見える。この服装が、不信感の原因かもしれない。通路は奥に続いているけど、この人を突破しないと先には進めない。少し緊張しつつ、受付係らしき彼に近づいていく。

「『ヘルシー&スマイルズ』の白鳥です。松田さんに呼ばれて来ました」

 私が最後まで言い終わらないうちに通路に並ぶ扉のひとつが開き、松田さんがひょこっと顔をのぞかせた。

「ああ、夏妃ちゃん」
「どうも」

 松田さんは私のことを『姫香』ではなく『夏妃』と呼ぶ。私と姫香の関係のことは話していないから、松田さんの言う『夏妃』は私が大食いチャレンジで使うときの名前だ。それでもこっちの世界で私の名前を呼んでくれる人は琉生とルミさん、それからルミさんの娘のルナちゃんだけだから、ちょっと嬉しかったりする。

 それに社食からここまで悪目立ちして緊張していたせいで、知った顔を見てほっとする。

「呼び出しちゃって悪いね」
「いえ。でも、何かありましたか?」
「ああ、うん。……ちょっと中で話せる?」

 私にそう言ったあと、エレベーター前のカウンターにいた男性に声をかける。

「緊急以外は通さなくていいから」
「はい」

 私に対しては不愛想だった彼は、松田さんには丁寧に頭を下げた。たぶん松田さんはこの人の上司なんだろうし、仕方ないなとこっそり肩をすくめる。そういえば、秘書の秘書はなんて肩書なんだろうなとぼんやり考える。

「お飲み物はどうしますか」
「俺がやるからいいよ」
「承知しました」

 そんなやりとりを聞きつつ、ちらっと最上階のフロアを観察する。きっと通路の一番奥の、観音開きの扉の向こうが社長室だろう。他のフロアと違い、ここだけ床は絨毯が敷いてあって、まさにエグゼクティブな空間だ。

「夏妃ちゃん、こっちへ」

 松田さんに誘導されて、社長室と思われる部屋のひとつ手前の部屋に入る。こちらも私が想像するオフィスとはかけ離れた贅沢さで、調度品もシックで高級感がある。

「そこに座ってて。コーヒーを淹れるから」
「はい、ありがとうございます」

 普段なら男性と二人きりになるような危険は冒さないけれど、松田さんは何年も前から知っていて、人柄もわかっているし、琉生も信頼している相手だ。だから勧められたソファに素直に座る。

 そして、めちゃくちゃ座りごこちのいいソファにうっとりしそうになるのをこらえて、ここまでずっと気になっていたことを訊ねてみる。

「あの、松田さん。ここではあまり関わらないようにしようという話でしたよね。……なのにどうしてこんなことを?」

 派遣前にした取り決めのことを持ちだした私に、エスプレッソマシンにマグカップをセットした松田さんが振り返る。いつもにこにこしている松田さんは、どこか気まずそうな表情を浮かべている。

「今朝のこと、ちょっと耳に挟んだものだから。夏妃ちゃん、大丈夫かなって思って」
「え……」

 琉生が部屋を出ていった後、どこに向かったのかはわからない。ひょっとするとあの後に、松田さんと会っていたのかもしれない。けれどももし勘違いだったら夫婦間のアレコレを自ら暴露することになってしまう。だから少し、様子をうかがってみる。

「えっと……『今朝の』って、どんな話を?」

 湯気の立つ二つのカップを持った松田さんがやってきて、カップの片方を私の前に置いてくれる。そして自分は私の向かい側のソファに座った。
 
「ちょっと、きついこと言われたんじゃない?」
「……あ」

 やっぱり琉生が松田さんに話したのだ。琉生は決しておしゃべりな性格ではないけれど、あの後きっと自己嫌悪に陥っていたのだろう。それで松田さんに連絡したに違いない。

 けれども姫香との入れ替わりに関することは話していないはずだからと、慎重に言葉を選ぶ。

「いえ、大したことじゃないんです。それに元はといえば私が悪かったので……」
「夏妃ちゃんが悪かった、ってどういうこと?」
「え? ええっと……」

 普段の松田さんは、こんなふうに突っ込んだ質問をしてくるタイプじゃない。こっちが詳しく言いたくない雰囲気を出していれば、すぐに察して引き上げるタイプだ。なのにやけに食い下がってくる松田さんに違和感を覚えつつも、どうにか答える。

「話し合いが、足りなかったというか……」
「話し合い?」
「だから、その……」

 ぐいぐい質問してくる松田さんにいよいよ戸惑う。 
 今日の松田さんは、ホントに様子がおかしい。

「私の言葉が足りないせいで誤解させてしまったんです」
「でもたとえそうだとしても、夏妃ちゃんにきつい言葉をぶつける理由にはならないんじゃない?」
「それは……」

 琉生から言われた「きつい言葉」を、松田さんはどこまで聞いているのか。今朝の琉生の言葉を思い返してみる。

『俺は子供ができようができまいが、お前を手放すつもりはないからな』
『万が一俺と別れようなんて考えてるなら、どんな手を使ってでも阻止するぞ。たとえお前から自由を奪うことになっても、だ』
「──っ」

 思わず両手で口もとを覆って声を抑える。たしかに口調はきつかったが、内容を思い返すと居たたまれなくなってくる。

 ちょっとまって、琉生はアレを松田さんに全部話したの?

 罪悪感にかられた琉生が、勢いでアレをすべて松田さんにぶちまけていたらと思うと、羞恥がこみあげてくる。かーっと顔が熱くなってきてうつむいた私に、松田さんが声をかけてくる。

「……夏妃ちゃん? 大丈夫?」
「わ、忘れてください!」
「え?」
「ど、どうか聞かなかったことに!」

 顔を上げ、ソファからばっと立ち上がった私を、正面に座っていた松田さんが驚いて見上げてくる。

「夏妃ちゃん……?」
「私、全然気にしてないんで! 落ち込んだりとかしてないですし!」

 松田さんは琉生からの相談をうけて、私の機嫌をうかがうつもりだったのだろう。松田さんはいい人だから、百パーセント親切心から行動しているだけで、悪気はないのだとわかっている。

 だけどごくプライベートなやりとりを他人に知られてしまった状態で、落ち着いて話ができるほど私はこういうことに免疫がない。

「それじゃ、失礼します!」

 今すぐここから逃げ出したい。
 ほとんど走るように出口に向かった私を、背後から松田さんが追いかけてくる。

「夏妃ちゃん、待って」
「ぎゃあ」

 がしっと腕をつかまれる。
 今日は朝からやけに腕をつかまれる日だ。

「そんなに動揺してるのに『気にしてない』なんて、信じられるわけないだろ?」

 気にはしてる。
 めちゃくちゃしてる。

 夫とのプライベートなやり取りを他人に知られて、めちゃくちゃ動揺してますけど!?

「本当に、大丈夫なんで」

 っていうか、早く帰らせてくれたら大丈夫になります!

 なのに松田さんは私の腕を握った手に力を込めてくる。
 
「本当は……今日はちょっと様子見だけのつもりだったんだ。俺がキミを気にかけているってことを周囲に見せつけて、少しでも今後の抑制になればって。だけどここまでキミが追い詰められているのなら、俺としても放っておけない。『ヘルシー&スマイルズ』との契約は、即刻打ち切る」
「────は?」

 私と琉生のアレコレに、なぜ『ヘルシー&スマイルズ』が関わってくるのか。

「なんで?」

 思わず敬語も忘れて松田さんを見上げると、松田さんはすごく怖い顔をしていた。何年も前から知っている人だけど、怒った表情を見るのは初めてだな、なんてぼんやり思う。

「……報告があがってるんだ。キミが『ヘルシー&スマイルズ』の同僚から心無い仕打ちを受けているって。YAMATOの社員から人気がありすぎるせいで、いじめを受けているんだろ?」
「……え?」

 松田さんの話している内容がまったく理解できない。
 いったい誰の話をしているのか。

 びっくりしすぎて言葉が出てこない私に向かって、松田さんが悲痛な表情で告げる。

「キミが同僚からきつい言葉で叱責されている現場を、目撃していた社員もいるんだ」

 何の話?

(続)
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