なんだなんだ?
2013年08月07日 (水) 22:01
ノリのいい会社3を投稿した翌日あたり、ありがたいことにポイントが変なほどたくさんいただけたのだが、もしかして、一時のバグだった?

今はすっかり安心なポイント数です。
一時は合計90だったものが、今は10です。不思議やん。

一体なんのイリュージョンでしょうか……。

ポイント数はありがたいですが、とにかく、その一瞬のバブルのおかげか、それでランキング入りしてしまい、たくさん閲覧者さんがいらして貰えた様子。

棚からぼた餅と思っておきますが、なんだか、濡れ手でアワな気分です。

そしてアワアワな気分です。


とりあえず、なろうさん、バグなら運営上危ないかもですので、ここにこうしてヒッソリと報告しておきます。
コメント全100件
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とーよー
2013年12月03日 13:37

俺がコスミ君に対する率直な印象は『ちょっと、人を見上げ過ぎかなー』ってものだね。無論、人を尊敬する気持ちは良いし、俺も、星や筒井は好きだけど『自分より長けている』と思った事はないからね。コスミ君はアメピグの人もそうだし、手塚やスピルバーグも宇宙クラスみたいな事を言っていたじゃん?俺は他人に対して、そんなに偉大な印象を持った事がないから、ある意味羨ましくもあるんだけど、ちょっと、呑まれ過ぎかなーと思うところもある。アメピグもそうだし、書き込みの場なんて、多かれ少なかれ、そんな人間が要るのものだから、その場の流れを自分自信で変えてみる方法を考えてみるのも良いと思う。

真剣に相談、アドバイスをしてもスルーやシカトする人もいる。それも当たり前に要るものなんだよ。でも、俺はそれを絶対にしないで来たし、これからもそうだと思う。逆に自分がそれをやってしまったら、自分もそのレベルに成り下がってしまったって事だから、結局、その人達に負けちゃっているんだよね。俺は相手が嫌味だろうとヒネクレていようと、極端な話、黙っていよーとも、やろーと思えば、いつからでも何か返せると思うし、どんな言葉にも上手い返し方ってあると思うから、それを考えてみる事が多いよね。

多分ね、元々、コスミ君と俺って全然違うと思うんだよ。というより、俺みたいな人間の方が絶対的に少ないとも思うんだよ。

普通は嫌味とまではいかなくとも、自分に都合が悪かったり、気に食わない相手だったりした場合い、消したり、シカトしたりするわけじゃない?また、返すにしても、おかしな返しをしたりするわけじゃない?そーゆー部分を気にする人間に限って、この人には返さないけど、この人には一生懸命返信を書きますよアピールをしてみたり、結局、遠回りに自分がそのレベルに呑まれてしまっているんだよね。でもね、それって、淋しさの現れというか、悲しい力の抜き加減アピールみたいなものだから、可哀想と言えば可哀想な状況なんだよ。サイトレベルの向上や、周りを活気立てる部分で言えば、マイナスなものだし、そーゆー事でジメジメと攻撃したつもりが、結局、自分の首を絞めているわけで、結局、周りに『自分はこういう奴です』って分からせているようなものだから、最終的には自分が損をして、更に1人ぼっちになってしまったりするものなんだよ。俺はそんな人間を沢山見て来たからね。暫く経って気付く人間もいるし、気付かない人間も沢山いる。気付いても気付かないふりをする人間が1番多いかな。だからこそ、俺は誰1人、除け者を出さずに、やり続けようとも思うし、例え、それで、自分が1人ぼっちになったとしても、俺なら、そこから這い上がる自信もあるから、そこは二の次って感じで行動していく事が多いね。そこまでやる人間なら、認めてくれる人間が何処かしらに居るものだし、なんと言うか、そんなに理不尽じゃないんだよね。自分が思うより、周りはちゃんと見てくれているし、大きく、本当の意味で、自分がブレずにプラスで居続けられれば、それを評価してくれる人間は何処かしらにいるものだからさ。

俺はコスミ君に対して色々と残念だなと思う事はあったよ。内容は他で書いたので書かないけど、頑張って欲しいとは思う。そーゆー言葉が聞けて良かったと思う。共に頑張ろう。

BY/とーよー

コスミ
2013年12月02日 11:46
アメーバの匿名の悩み相談コーナーの人々は、僕に鮮烈な印象を与えた。迫力があったよ。
怒り狂う人間の文字、というのを、けっこう浴びた。
僕の弱点属性だな……とつくづく感じたね。電話とか、とーよー君に話す時は基本的に強がっているけど、ものすごく傷ついてるからね。
ちょっと横道で、なぜとーよー君に対しては強がるのか、と考えると、簡単に例えて、師匠や父親に接している感覚、と思えばたぶん近い。強がる、というひねくれた甘え方になるんだね。

僕は、怒られるのがものすごくヤダ。

で、見ず知らずの他人から軽く袋叩きにあって人間の情動というのを薄っすら学んだんだけど、その中で、一部の人々はさらに濃厚だった。

そこに長く住んでいる人々で、可愛く言えば、仲良しチームみたいになってた。と知ったのは後からで、攻撃ターンでは、裏で連携して上手く角度を変えて論破を目指してきた。
書くほどに陰湿なイメージを持たれそうだけど、彼らは、なんというか、まあ良い人たちだと思ったよ。口と品は悪いけど。
バカでもない。ただ、バカな世界に浸りすぎて、バカの悪い成分がコーティングされてしまってる、みたいな。つまり根は良い人ばかりなんだよ。頭も切れてる。コントロールが荒いだけで。
根まで染み込んだらヤバイ人になってくるんだけど、彼らは大丈夫だと思う。たぶん。
そもそも、悩み相談コーナーに住んでいる人々だからね。他人の相談に乗りまくるんだよ。ただただ偉いよね。

真剣にアドバイスしても、シカトスルーの相談者もいる。だから、こっちもほどほどでいい。自演のヤツなんかも来るし、向こうの方が問題だ。

金をもらうプロじゃあるまいし。ここはフリーのサイトです。納得できなきゃプロのとこ行けよ。そもそも相談者もそんなにアテにしてないでしょ。


……こんな感じで、大きいカテゴリーで言えば、アドバイザー側もグチが多いわけ。でもそれも、相談者の悩みに寄り添ってきたら、少しは人間グチりたくなる体調にもなるだろうし、到底、即座には責められない。
なのに、僕は「もっとできんだろ」と熱血ぶった。そしてフクロ。反省した。

僕は色々取材できたけど、彼らに得るところがあったかどうか……。まあ、たぶん勝手に楽しくやってると思う。色んな人がいて面白いとこだよ。
文字、それも手書きでもない、ドライな活字だけでも、人間はここまで通じ合えるんだなぁ、とすこし感動する。
とーよー
2013年12月02日 08:01

俺は自分にテーマを与えて進む事もあるけど、人と何かをやってみるってのも良いと思うし、コスミ君はそれを求めている部分もあると思うよ。

アメピグの先輩達が色々なテーマを持ち掛けてくれたって言っていた事があったじゃない?それは、どんな感じだったの?

そーゆーのも聞いてみたいよね。
コスミ
2013年11月04日 00:12
試練とは、突き詰めて言えば「自分が自分に与えるもの」であるらしい。

なら、越えよう。きっとできる。
コスミ
2013年10月28日 14:16
野菜ソムリエの創始者たる人の本をパラ見。

野菜は、戦後から60年代あたりまでの「とにかく量を作れ」というJA主導のシステム的な体制によって、土から遠い都会の生活者集団にスーパーを介して供給されてきた。
その結果、最近になると、野菜についての知識は、農家と生活者との間で大きな隙間が空いてしまった。なので、目新しかったり、有機だなんだとこだわったりした野菜がまだまだ売れにくい。
比較的高い理由、付加価値についての説明が必要なのだ。
見たこともない新しい野菜については、そもそも食べ方からしてわからないので、味や特性の説明・レシピの提示などが必要になってくる、という流れはわかりやすい。同じように、オーガニックだったり品質勝負だったりといった野菜の場合も、納得して購入への動機を高めてもらえるように工夫しなければ、単に上質・高額な食材としてしか見られらない。という話。今後は欧米を追って日本でも野菜ブームは加熱していくとは思う。なんでもそうだが、新しい風潮を見たら、その功罪を見極めたい。

本当は、こうしたナイス野菜の真の価値は、社会規模で食へ対する意識が良化(百姓レベルへの回帰)していく可能性を秘めていることなのだろうと思う。
配給のように一律で生涯同じような姿形をしたプラスチック製品のごとく安定した野菜としか顔見知りになれない、というのよりは、野性本来の生命力をもったような本気の野菜のことも見知っておくと、世界がずいぶん広がるし意識も変わる。大量の他人に囲まれているよりも、気の合う親しい人たちとのリンクを志向する、というような。人間は、内面と外的環境の豊かさは大きく影響し合っている。どちらか片方だけで生きていくのはなかなか大変だろう。たとえば内面だけだったら、達磨大師みたいに手足が朽ちる。かも。
でもそれで日本の歴史に残るゆるキャラとなって外国人にお土産として買われるのなら大したものだろう。そのうち初音ミクとかも日本代表のキャラの系譜に名を連ねるだろう。
招き猫、達磨、こけし、ドラえもん、初音ミク。

食べ物の話だったことを覚えているだろうか。
意外に思われるかもしれないが、生き物は、食べた物だけで身体が構成されていくので、大事なのです。
野菜の形をした点滴を供給されていても退屈だ、とまで過激には言わないが、コンビニスイーツに凝ったついでに、次は、色々と根本的な部分にも食指をのばすような風潮となるだろうとは思う。野菜でなくてもいいが、食べることと、食べ物を作ることについて、断絶されていた情報と再結合し、購入者たちの理解が広がっていくと、日本の野菜界と食文化は活性化してさらなる魅力を備え、良い感じになっていくだろう。そうすると世界からも褒められるし、また、それぞれの個性を見比べ、認め合い、真のグローバル化となる。
これまで(今現在)のグローバル化は、どこかの最大勢力のていのいい世界制覇作戦なのではないか? と疑わしい。何しろ、画一化が声高に叫ばれているように見えるからだ。
かつてスペインは宗教的な教義に酔ってインカ帝国を滅ぼし植民地化したり、さらに遡ればローマ帝国の例もあるように、画一化が全面的に悪いのではなく、良い部分でくるんで毒を盛って支配するような流れは歴史に連綿と繰り返し見られる。アヘン戦争の流れなども、考えてみれば似た事は今も続いている。
麻薬と、その取り締まりとのいたちごっこ。
巨額の動くところには、巨大な影があると見ていい。薬といえば、医療界などもだ。
毒を飲ませ、薬で治せば、二倍儲かるどころではなく、永遠に儲かるだろう。(それは薬の世界だけにとどまらない。色々なところ・規模で応用されているだろう。毒と薬。ワクチンと治療。問題と、解決。その両方を掌握されていると、どうなるか。恐ろしい)
もちろん衛生・栄養環境の悪かった昔には医療は神仏のごとき威光を放ったありがたいお医者様だったろうが、実は農村では民間医療でそこそこ頑張っていた。薬草とかで。(今、イギリスなど欧米ではホメオパシーという医療技術が見直されているらしい。これがすごいのは、猛毒を水に薄め、何段階も薄め、もはや猛毒の分子がひとつも残っていないくらいまで薄めた水が、薬として効果を発揮するのだそう。それもプラシーボ効果の一切入り得ないテストで効果をあげているのだから面白い。と余談)しかし栄養が悪いのか子どもの死亡率は今のアフリカのごとく高かったろう。
合成麻薬は薬物的にエッジが効きすぎてて劇薬だが、たとえば、酒とタバコとそれほどの差があるのだろうか? と考えてみてほしい。
ネイティブアメリカンなどは喫煙をある種神聖視していたり、シャーマンなどはキノコか何かでトリップしたり、そういう自然由来の植物性の麻薬は文明圏外の民族には馴染みのあるものだ。当たり前だが時代が進むと色んなものが禁止されたり解禁されたりしていく。シャーロックホームズだってコカインを嗜む。
酒と麻薬の実際的な効果にそこまで差はないとも思う。中毒性や、意識への影響。もちろん種類にもよる。繰り返すがケミカルな合成薬はエッジが効きすぎててヤバいだろう。だからといって大麻などならOKとは言っていない。ダメ、絶対。それが日本の法とのお約束。
口にする食べ物が寂しいから、その寂しさを埋めるために薬理的にエッジの聞かせた工業的な食品商品が売れるという側面もあるだろう。そのように誘導されてきた、とも言えるが、それでは被害者ヅラしすぎかもしれない。
尊い生命をいただいていると実感しながら味わえる豊かな食生活となれば、それで維持・構築されていく自分の身体にもありがたみが湧いてくるだろうし、とにかく色々とヘルスィーははず。そうすれば酒とかも、何もかも忘れるほど大量ではなく、ホロ酔いくらいで満足できるようになるだろう。
そういう事は、いろいろと繋がっている。
喫煙者が悪いのではなく、吸い殻ポイ捨てなど、一部のマナーが悪いのだ。坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、という諺を思い出そう。袈裟に罪は一切ない。一部の犯罪者が憎くて人類全体を滅ぼされたらたまらない。
なにかの暴動でよく見る、他所の国の国旗を燃やして喜んでいる人々を嗤ってはいられない。補償行為。八つ当たりは普遍的な衝動だ。

ところでなんでこんな話になっているのだろう。
教えて、野菜ソムリエ!
いややっぱり、野菜ソムリエール!
コスミ
2013年10月25日 13:35
中丸薫「会話は、8の字を書くイメージで」
これは、双方向的な会話の極意だろう。至言だと思う。
キャッチボール、とよく喩えられる会話ではあるが、粒子方面の力学的に考えると、それはリンクではなく反発なのだ。
光子というものがあるが、これは実はエネルギーであり、これを風として帆に受け、推進力に変えて進むのが、宇宙ヨット「イカロス」です。我らが日本製。
太陽風、と言うだけあって、ちゃんと力を発しているのです。
で、そんなわけでキャッチボールとは、実は押し合いなのです。わかりやすくすると、もし二人がそれぞれ別の舟の上に立っている状態でキャッチボールをすれば、どうなっていくか、わかるだろう。そういう感じです。
会話が弾む、などと楽しく感じられる時には、実は、もはやキャッチボールを超えているのだ。そこにはお互いが伝える力の進行を妨げるものはなく、極めて滑らかにスーっと進んでいく。キャッチという、一時停止、再始動といった手順はない。ただ流れていく。
それが「8の字を書くような会話」なのだろう。
人間、調子が良い時というのは、エネルギーの送受信が快調になって、滑らかに、澄み切った心地で力を発揮することができる。何か、大きな循環と繋がった管として機能するような感覚だ。
それはスポーツ界でいうゾーンだったり、ランナーズハイであったり、その他では無我の境地、一種のトランス状態であったりなどする。
心を開いて、エネルギーの風通しを良くすると、そうした真に力強い循環を感じ、暖まって、それがスポーツで言うところのアップとなり、良いパフォーマンスができる。のだと思う。
与える者が得る者、なんてのは、まったく良く言ったものです。
動脈硬化した心をほぐして、リンクして、健やかに巡っていきましょう。
反対に、変な欲に駆られて自分を袋にして溜め込もうとすると、きっと心身に不調が出てきます。それが心のメタボであり、生活習慣病なのです。
循環型社会とは、考えてみるとなかなか深い。
コスミ
2013年10月23日 14:48
漫才は、いくらでも学術的に追求していける分野だ。

ボケ、ツッコミ。この二つの要素だけでもイケる。どこまでもイケる。

ボケがメインとするか、ツッコミをメインとするか。そのバランスさじ加減だけでも、かなり幅が生まれる。
つまり、ボケの部分で笑いを起こすか、ツッコミによって説明して笑いを成立させるか、という二極。もちろん、実際の漫才では両方のブレンドが起こるのだが。
だからさっきのように話の長さまでも引き合いに出せば、
ボケを長めにするか、ツッコミを長めにするか、という話にもなる。

言っておくが、小説にも関係している話だから、しているのだからね。カン違いしないでよねっ!

会話文がなんとなくレールの上を流れていくだけの感じがしたり、逆に迷走し放題だったりと、各人の悩みは七色十色だろうが、把握できているのならもはやそれは問題ではない。もう解決に向けて動いている。

会話を膨らませるには、ウソで横道話を挿入するといい。枝をつける感覚だ。
そうすると、手軽にリアリティと言う名の煙に巻くことができる。多用すると読者が迷子センターへ行ってしまうのでほどほどに。
逆に、会話が迷走するなら、先に始点と終点を把握すればいいだけだと思う。
というわけで、目的がハッキリしないフリートークほど、描写が難しそうだなぁ、となるが、まあそのあたりはキャラへの愛着度・憑依度の差とも思える。ここが得意な書き手も多いとは思う。僕は、すこし照れるのでどちらかと言えば苦手だろう。

漫才学の応用可能な範囲は、会話だけにとどまらない。地の文、つまり説明・記述文にだって活かせる。と願う。
バクマンの中で、「ナレーションだけで読ませてしまう勢いがある」と天才肌の漫画家が人の作品を評価しているシーンがあったが、文章作品界においては、それはかなり憧れる状態だろう。
だってナレーションだけで読ませるしかないのだから。
いや、会話もあるけど。
ともあれ、ナレーション技術は、でかい要素でしょう。
なのでみなさん、ナレーションの多い、ドキュメンタリー系の番組は、参考になるよ、と、当たり障りのないことを言ってララバイします。
あ、あとラジオも結構参考になるかもしれない。ワイドショー的なラジオ番組で、食レポみたいな街ブラ企画を聞いたところ、かなりびっくりしました。考えれば当然なのですが、色とか何とか、もう何もかも全部言葉で説明するんです。映像が無い分、ものすごい説明発言が多い。
だから、テレビがない昔の小説が説明文章多めで、最近のが少なめだというのも、ずいぶん納得できる気がします。
なるほど・ザ・ワールドなのです。
コスミ
2013年10月23日 14:13
とと、下の文をツッコミ普及への批判と捉えていただけてもいいのですが、もちろん全否定ではないのです。高度な技術ゆえに、弊害もあるんじゃね、っていう度合いだろうか。

長文ツッコミなんてダルいわ、とも普通に思います。たとえば下の文に対してツッコミが来るのならば、僕からのオーダーはこうです。

「結局なんて言いたいのかがわからん」

このように、短くバッサリ言われることこそが下の文の対としては、よりきれいな対称をなすのです。よって、そんな風にツッコまれた時には、僕はもう、ぐうの音も出ません。
無理に反論するにも、まぁ、これくらいでしょう。

「僕だってわかりません」

いずれにせよ完敗です。言い訳をすれば、ツッコミの凄さを強調することこそが、本来の目的であり、あわよくば、さらなるビューティフルなツッコミストになるための手がかりが得られれば……といった願いもあったりなかったりしたのが、下の文なのです。
いずれにせよ完敗ですが。
完敗……?

『それでは聞いていただきましょう、
長渕剛で……
……
……
……
……
……
……
……
とんぼ』
コスミ
2013年10月23日 13:48
考えるほど、漫才というのはすごい。
討論・議論での闘争的な血生臭ささえも、おちょくって笑いにしてしまうのだ。
ツッコミ。これはすごい技術だ。
ツッコミを攻撃と捉える人は少ないだろう。だが、ツッコミは、否定であったり訂正であったりと、つまり議論におけるもっとも着火
しやすい部分をあっさり平和的に和やかにクリアしてしまうのだ。
しかし、悪い部分だけを取り出すと、コンパクトな全否定ワードとなってしまう。文字で書けばわかりやすい。
違うがな。
これは、実は全否定ではないか。ツッコミのノリじゃなきゃ言えない。
「いや、それは違うと思いますよ。なぜなら、あれこれあれこれ……」と、科学者の議論では、必ずと言っていいほど、理由などをくどくどと並べるはずだ。むしろ、違う、という終着点さえも触れないまま、自分の意見を提示するだけでも充分となる場合もありそうだ。
だが一般の人々がそんな風にギッチリギチギチに長文会話などできるはずもなく、漫才という教材はうってつけとなり、売れて、普及したわけだ。
(能や落語や歌舞伎などの民衆発の文化にも、色々と当てはまりそうな話だ)
なんでやねん!
ツッコミの精神の普及により、ずいぶんと会話は軽快になったことだろう。
そろそろ長文で、学者的に、インテリジェンスに意義深いツッコミをする流派も、アリなのではないだろうか。
ツッコめばオールOKではない。それは、会話の充実を主眼とするならば、ゴールを履き違えている。手近なところで最小公約数的な薄ら笑いの共有に着地したがる。それではヤリ捨てるナンパ師みたいなものだ。いやまぁ、その生き方を否定するわけではないが。(ウソつけ)
「あー、いま噛んだ〜www」で話が終了してしまうシステムは、プロの世界で充分だろう。まあ、楽しむための雑談ならばいいんだけど、もしその人が結構真面目にプレゼンしたそうな目をしていたら、普通に聞いてやったほうが良くないか。
何のために話している。
何のために聞いている。
案外に、そういう尺度で考えると迷子だらけの世の中だったりもする。

「地獄への道は善意で舗装されている」
善意や優しさは素晴らしい。ゆえに、ニセモノも多い。
ぬるま湯のようなニセの優しさに迎合していると、ふやけます。が、厳しいなんてのも、やはり単純に責任重大なスタイルと言える。
美味しくて身体に悪い食べ物なら許されるが、不味くて身体にも悪い食べ物なんて素早く淘汰される、といった具合に。
実態は高刺激な反論であるツッコミに対してさえも無感覚になってしまうという、副作用だけに溺れてしまうような依存体質は危うい。
ツッコミを嗜めるのなら、きっと笑い少なめの議論さえも嗜めるはずなのだ。
逆から言えば、あとで圧縮してしまえば、議論なんてのは漫才に過ぎない。科学系の本を読んでいると、今にして思えばそんな感じだ。世界は平らだったところから、球体になり、地動説になり、万有引力だなんだと、色々と話が進んでいく。
とんでもなく壮大な漫才だ。オチもきっとものすごいだろう。
コスミ
2013年10月23日 13:21
討論・議論は言葉のスポーツ。
科学史や現代の科学者たちついての情報に触れると、よく、誰それと誰それが対立している、とか、どこそことどこそこの研究機関の競争、などといった表現が多い。
それは説明上、構図をわかりやすく教えるため、あるいは単にエンタメ的な脚色である可能性を忘れてはいけない。
科学者たちはそんなに歯を食いしばりながらバトっているワケではない。
討論・議論についての教育・普及率は絶望的な水準にあると言っていいのではないだろうか。日本は、たぶん、和の精神を悪い意味で絶対化してしまいがちだ。
科学者。彼らは、ケンカしているのではない。それぞれの意見、情報を、突き合わせ、また考え、と、あくまで前進を基調として活発に闘う。
科学を、ジブリ作品に置き換えてみる。

私はラピュタが一番面白いと思います。なぜなら、これこれこうで……。
いや! 私はトトロが一番面白いと思う。ラピュタはかくかくしかじかだし、対してトトロはどうたらこうたら……。

これが議論である。
相手を打ち負かすのが大事なのではなく、より納得できる、つまり真実っぽい領域へと漸近するための活動なのであって、つまり、試合の勝ち負けよりも、充実したハイレベルの良い試合をしたい、という欲求の方が、彼らの体内に流れるメインエネルギーだろう。
これが相手の討伐に目が眩むと、こうなる。

ラピュタなんて◯◯だろ! バーカ! だからラピュタ好きな奴なんてのは◯◯で◯◯野郎なんだバーカ! ◯◯!
はいはい、出ました。バルスバルス。そんな罵詈雑言を巻き散らかす奴に、トトロなんて見えないだろうに。
は? 罵詈雑言なんて言ってねーし。ただのみんなの意見だし。
誰だよ、みんなって。その集合を明確に示せよ。

……などと、もともとの目的から大きく逸脱していくのだ。
今さらながら、スポーツに例えた方が早かったかもしれない。
サッカーの試合が始まる。やがて、選手たちはエキサイトし、白熱し、理性を失っていく。すると、ルール無視のラグビープレイが横行し、相手チームの選手に頭突きを食らわせたりする。しまいには乱闘だ。
日本ではまだ、討論・議論を見ると、直ちに乱闘だと感じてしまう人が多い。
良く見極めるべきだ。
国会での討論など、まぁあれは個人同士の足の引っ張り合いしか見えないが、きっと、彼らの間には、見えないボールが存在しているのだ。

で、小説表現というのが個人プレーのソロシンガーみたいなものだとすれば、話し合いや、議論というものは、きっと漫才やデュエットや、まあ色々なんやかんやと発展していく余地があるのだろうから、つまり文字コミュニケーションの可能性を考えた時、一種のスポーツマン的な、あるいは科学者的な、割り切りの発想というか試合のルールと秩序の合意というか、あうんの呼吸、信頼が通っているような状態であれば、それは下支えとなって議論のレベルと効率を高めていくだろう。

こうしたものは、日常の会話でも応用がきく。
議論=個人への攻撃と受け取られやすい、という条件を把握しているのなら、対処すればいい。
陥りがちな失敗例から示すと、たとえば、こちらは「サッカーが好きでない」という情報を伝えただけのつもりでも、相手は「サッカーは全否定。サッカー好きな人も嫌い。つまりあんたも嫌い」だと言われたかのように感じてしまう。
つまり、競技上でのオフェンスを、人間同士の宣戦布告だと感じるから不快なのだ。
ボールを取った相手をいちいち憎んで恨んでいたら、スポーツどころではない。
たかが「私はサッカー好きじゃない」と言われたくらいで、サッカー文化を丸ごと取り上げられたかのように感じ、さらには個人的な人格否定までされたように感じてしまう。
と、こう書けば被害妄想だというのは明白だが、ちょっと良く考えてほしい。振り返ってみて、こうしたことの小型版や変形といった体験や記憶があるのではないだろうか、みなさん。絵空事でも他人事でもない。
高度で効果的な議論によって、どれだけ人間は、高度に効果的に成長できることか。あまりにも普及していない概念なのが口惜しい。
そりゃあまぁ、そうだろう。だって嫌だし不快だもの。だがしかし、自分を信頼し、相手を信頼し、議論の成果をも前もって信じる。
これがやすやすと成立しているのが、スポーツの世界などの、良く見えるわかりやすい、ルール内での闘いなのだ。

と、日常会話への応用を書くんだった。忘れてた。
んんー、思うに、言うなればボクシング的に話すのではなく、ちゃんとボールを規定することが、まろやかな会話をするコツなんだろう。
何についての会話なのか、という俯瞰目線だ。ここを混乱してしまえば、たちまちボクシング口論となる。あるいは漫才。
どういうルールで、どういう目的のスポーツ、もとい会話なのか、という根本を確かめる思考。足下がしっかりしていれば、フラフラしても不安はないし、フラフラ自体を楽しめるし、「なんでそんな話になるの?」とかいった迷子的なイライラも減る。
会話、特に雑談では、流動的にルールや目的がコロコロ変わっていくので、それこそを楽しみつつ、実りある議論をも取り入れ、嗜みたいところだ。
「へえっ、ラピュタってそんなに面白いのか……」
「そうか、トトロは、大人でも見られるんだ……」
というように、お互いが好意的に影響しあうのなら、満更でもないだろう。
「いや! ラピュタ最高! 見ろ! ラピュタ以外が一番だなどと言っている人間どもが、ゴミのようだ!」
……これでは、ちょびひげヒトラーなのです。
世界を焦土に変えたところで、新しい楽しみを得るわけでもない。
好きなぶんだけ、好きなように人と関わり、好きなように学んだり影響を受けたり無視をしたりすればいい。
楽しいスポーツになるかどうかは、突き詰めればプレイヤー次第でもあるはずだ。しかも、かなり自由にどんなスポーツか選択して自由にやったりやらなかったりできる。
こんなに寛容なスポーツクラブは、なかなかない。
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