2012年05月17日 (木) 18:50
いつも、このような稚拙な文章を読んで頂きまして、誠にありがとうございます。
ご感想のほうで書かせて頂いたのですが、ナターシャの扱いに関しまして何点かのご指摘を頂きましたので改変をさせて頂きたく思います。
今まで変更を行わずにいたのですが、今回改変を行った方が良いと考えました。
ですので、今のお話が途中となってしまいますが、しばらくの間は今まで投稿した全ての文章を加筆及び修正させていただきたく思います。
楽しみにされている方には大変申し訳ありませんが、なに卒ご理解の程よろしくお願い致します。
ナターシャの自身が受けた印象は『慈悲の菩薩と修羅』が共有した人物像でした。
これは、福音をわが子のように可愛がる姿。そして、それを傷つけた者への報復をと考えている原作の文章から感じました。
機械をわが子のように感じる女性、これが親友であった場合は更なる憎しみに駆られるのではと思い、お話を構築いたしました。
彼女が喜久を見ている視点は、『人間と物』との中間という扱いとしていました。試験体であり、人から生まれたわけではない人。扱いに困ってしまう立ち位置にいる主人公としていました。
これを今回変更しお話を再構築させて頂きたく思います。
長文失礼致しました。
スルメ様の仰られていること、ご指摘の通り読まれている方にとっては感じ方が違うのだと私自身も考えております。
ご意見、誠に感謝致します。
確かに感じ方は千差万別なのですが、私自身の考え方と致しまして『読まれている方は読む分の時間を犠牲にし、一生の貴重な時間を割いている』と思っています。
ですので、私自身はその方の時間を頂いているというのであれば、楽しんで読まれて頂かなければならないと思う人間なのです。
こういった結論から、今回お話を改変させて頂きたく思いました。
お話を書かせて頂いた際、ナターシャはどう思考するかと思いながらお話を書かせて頂きました。
最初、自身を救ってくれた一夏には感謝する。
次に、喜久を見つけて激怒する。その後にやり取りを行っていきます。
同じことを書いてしまうのですが、私は原作から福音を失った際に、彼女はわが子を失ったといった感情を自分なりに解釈致しました。
この彼女の心のあり方は、軍務よりも一個人としての感情が強いタイプの人物像に感じました。
これが、親友を失っていた場合、それ以上の感情を持っていてもおかしくないのではと感じたのです。
ですので、喜久には仇のように見えているのでは感じました。
彼女の中では、喜久という人物は「人と物との中間」として扱っていると設定を構築しています。
喜久という人物はアメリカでは試験的な実験体、つまり元々は人より物という扱いに近い存在だと言う設定でした。
彼女から見た彼は人なのか、それとも物なのかと。彼女自身の良心では人として、しかし実際の周りから見た扱いは物としてみている。彼女は軍人であり、公私は分けるべきだと思いつつも倫理と現実の間にジレンマを感じている。そういったような彼女の内面を自分なりに構築いたしました。
ですが、自身が大好きだった人間が彼に殺されている。その結果、彼女にとっては憎むべき対象に心の天秤が傾いたと思いました。
お話の最後で彼女は喜久の周りの人間をみて、彼の振る舞いを考えます。それは、彼がどのようにして今の生活送っているのかと。ここから、彼女は喜久を仇としてではなく、一人の人間として見始める。彼女の中にある良心が前面に出始めた。
そして、彼に問います。「貴方は今、自分の行ってきたことにどう感じているの?」と。
喜久は自身のことを正直に話し、「後悔している」とナターシャに返答しました。
彼女は心の中で思考し、彼は自身の行った罪を理解し反省している。そして苦しみながらも、もがきながらも前を見ている。
そんな彼を見て、彼女は初めて彼を認める。
その演出として彼女は彼を「サーフォ」という名前を呼び、人として肯定した上で彼に助言をする。
このように、私自身で思考したことをお話として書かせて頂きました。
しかし、何人もの方からご指摘を頂きまして、今回は改変して書き直すべきだと思いました。
上記で書かせて頂きましたことですが、私自身として、やはり読んでもらった方には楽しんで頂きたく思っております。ですので、誠に身勝手な言い分ではあるのですが改変をさせて下さい。
纏まりのない、長文になってしまい大変申し訳ありません。
コメントをして下さりまして、重ね重ね本当にありがとうございました。