雑感:おとぎ話・故事から異世界転生への道(加筆修正版)
2025年02月27日 (木) 17:40
ふと思った。
 邯鄲の夢とか昔のおとぎ話は いわやゆる、自分の「ある人生」を夢で見て
 目が覚めて、そして 今の現実の自分の人生をより充実したものにするというパターンだった。
  もしかしたら これは インド~中国~日本の文化的土壌かもしれない。
  たしか ジャータカ物語にも それ系の原型があったような気がする。
 ⇓
 時代が下って 印刷物の時代になった西欧では
  クリスマスキャロルの精霊や、クマのプーさんのように、異世界もしくは異次元から何者かが訪れて
  自分の人生を見直すきっかけを与えてくれたり
  成長期の糧となった

 この辺りは キリスト教的神託とかお告げとか 
 あるいは それ以前の ケルトのシャーマンのような背景があるのかもしれない

 ちなみに ケルト?の祖となる人々、もう少し正確に言えば 西欧には
 モスコーの洞窟画など イギリス・フランス・スペインの洞窟画などがあり
 たぶん 少年が 青年として大人になるための通過儀式として 真っ暗な洞窟に入って
 己の心等と向き合うという 今でいう一種の異世界体験のような儀式があった影響かもしれない

その後、自分が 先祖の霊(先祖からの暮らし?)に向き合うために暗闇に入っていくのではなく
 絶対神(キリスト教の神様)ができちゃったから、あっちからこっちに霊やら神託が下りてくるみたいな感じに 変容したのかも。

 それを言えば 日本の修験道のように 胎動巡り(暗闇を通る)もあるけど
 これは あくまでも 修行として先達に見守られながら行うものである 
 つまり 現世における体験 でも ちょっとだけ異世界トリップ
 (一応 犬鳴山で修験道体験してますのでww)

 ⇓
それがいつの間にか
 イギリス式ファンタジーの原型みたいなもの
 たとえば C.S.ルイスの「ナルニア国物語」のように、成長期に 別世界に飛んで、
 今でいう異世界体験をするとか
 クマのプーさんみたいに 子供時代に 別世界からの案内人のような存在と 時々語らいながら成長するとか いわゆる イギリス児童文学の王道 みたいな世界になり
 ⇓
アメリカに行くと 若者向け小説世界? SF界のファンタジー系みたいな物語に (20世紀)

 このファンタジーから SFの別世界物への橋渡しになったのが、ジュール・ベルヌだろう。
 彼は 当時の最先端科学的情報(地質学探検を含む)を駆使しして 別世界探検物語を
 じゃんじゃん書いた
  自分が探検にでかけるものも
  海底二万里(海底五万マイル)のように 拉致られ体験・トリップ系もありで。

とまあ 、このあたりは 一言で言えば「行きて、もどりつ」である。
 たとえ 複数回行ったり来たりしても。
 最後は 現実世界に帰着する


ところが、昨今の日本の「異世界転移・転生系」系になると 
 もはや、物語世界・別世界に行っちゃったきり 帰ってこない
  死んで転生だけでなく
  最近は 異世界に召喚されても、「戻れない」設定やら、主人公が「帰らない」選択をするものも多い。

(最近 あまり海外SF・ファンタジー系を読まなくなったというか、日本での翻訳モノの出版物が、シリーズもの中心で、しかも女性作家のものだけは シリーズ最初の1・2冊しか翻訳されず、つまらないので 海外事情はよく分からないが
なんとなく これって 日本中心のプロットのような気がするのだが どうなんだろうか。)

・というわけで、プロットの変遷という目で見ると、歴史的につながっているようにも見えるけど
「異世界転生」ものの特徴というのは
読者なり主人公なりが、もはや 現世・現実社会に魅力を感じていないというよりは
現実社会でもめいっぱい生きて それなりに満足なり充実していて
でも 異世界に行ったので そこで 現世にはなかった冒険・自己実現をはかるという
ある意味 「豊かな現代社会・社会的に充実・安定した日本社会」を背景にした物語なのかなぁ
と思う。

それ以前の世界では 現実社会に 「飢え・貧困・教育を受ける機会がない=自分が望む暮らしにつながる道がない」という切実さをはらんだ 異世界=夢物語への出発であったり、「手に入れたいものを手に入れられない葛藤に苦しむ青少年に、「現実を直視するだけの精神的糧(力)・葛藤を抱えつつも現実に向き合い対処する精神的な支えとなる価値観」を与えるための異世界からの使者であったり、「試行錯誤の場としての異世界での体験」であったのに。

・「~なろう」系の 異世界ものにおいて、無理くりな「しいたげ」描写からの転生が多いのも
「転生・転移前の生活」と「今(リアル)」との「相互作用を必然とするファンタジーの定義」への無関心からくるものと感じる

(だから 「~なろう」では 転生・転移ものは 独立分野として成立させているわけだけどw
 そして それはそれでいいと 私は思っている)

過去の述懐として転移転生前の人生や生活を 主人公が語る場面が描かれている作品もあるけれど、
 異世界の体験が現実世界での問題に解決に結びつく(=異世界での体験を活かして 元の日常生活に再度トライするシーン)の描写は あまり見ない、というか ほとんどみかけないような・・
 つまり 転移・転生後の人生の物語であって、それ以前のことは フレーバー扱いなんですよね><

・「ちなみに 映画の「ネバーエンディングストーリー」が なぜ 従来のファンタジーファンの憤激をかったかと言えば、
異世界体験をして戻ってきた主人公が、現世に戻ってきたときに、自分で「いじめっ子たち」と向き合う(つまり異世界体験を現実での自分の生き方の向上・変容につなげるというファンタジーの基本)を無視して、
異世界から連れてきた龍でいじめっ子たちを蹴散らして終わったからだ。

 それは暴力に暴力で対応するだけの世界観の正当化。非力なら「つえー武器・強い助っ人」を使えばいいだけという安易さ。
 映画製作側からすれば 全体に重いトーンの映画であったから、最後くらい 龍に暴れさせて爽快なしめくくくりを観客に与えないと、興行的に失敗するという狙いがあったのだろうけど。)


・しかし昨今の「転移・転生前の生活」として無理くりないじめ・暴力描写」のパターン化はなぁ・・

どこが、「無理くり」と感じるかと言えば、虐げ描写が行動・状況説明がメインで 心からの叫び・悲鳴が一切感じられない「即物的感情・ワンパターン表現・非日常的用語や描写(そこまでやったら死ぬだろ・入院だねといういじめシーンや 生活不可能レベルの設定)だけで語られちゃってる」に終始している点だ。
(ほんとの被虐待児たちは そこから別の環境に移されても 精神的に対応できませんから)

書き手が 現実世界で、困難に 身も細るほどの思いで向き合い それを何とかしようと年月かけて努力する体験を積み上げていないからだろうなとすら思うこともある。(失礼な言い回しでごめんなさい)

・・もうちょっと ほかの言い方をすると、フィクション界における『「いじめ・暴力」のパターン化に慣れ過ぎた感性の横行』、たんなるシーン描写として常套手段化されてしまったに過ぎない感じ
である。

 だから たまに それを現実化しちゃって、若年層から青年(行政ではおおむね35歳までとなってます)による 「致死暴力・重篤な障害を残す暴力いじめ・嫌がらせ」が 毎日 複数話題になっているのでは・・? と思うこともある。

 言い換えるなら 「読書や観劇など、フィクションを通して自分の生き方を考える」という古典的態度ではなく、
読書・視聴というフィクション刺激のままに 日常で行動して、 日常生活に問題を起こしている、
つまり「フィクションへの接し方」が根本的に変わったのではなかろうかということだ。
(それも どちらかと言えば 好ましくない方向に・・)

・結論
昨今の 異世界転移・異世界転生ものというのは
 ものすごく 現代日本的だなぁと思う。


(おまけ)

エドガー・ライス・パローズの「火星シリーズ・金星シリーズ」これらはヒロイックファンタジー系ともいうらしいが、これは 今でいう「異世界転移」物語の先駆けをなすものであったと言ってもいいかもしれない。

「行きて戻りつ」のSFものは アメリカの作家たち(20世紀後半)が 当時の若者カルチャーやら
女性的観点からのSF系に多かった気がする

ただ 早川さんだけでなく 日本の出版社は 大概 女性作家のシリーズものは初期のごく一部しか翻訳しないから>< 原書で読む気力をなくすと もうあっちの動向がわからなくて・・
 せっかくアマゾンで海外本を手軽に購入でき、ネットであっちのファンクラブの動向を知ることのできる時代になったというのに><

 読み手(私)がギブしてどないすんねんという話('◇')ゞ

  お高い翻訳エンジンを購入すべきか否か・・
   (SFやジャーナルをきちんと翻訳できるソフトは いまだ成長途上だし
    めちゃ高なのが問題)

  昔の 千円ちょっとで 翻訳文化に触れられた時代のほうが よっぽど便利でした。
    (年齢や収入・社会的立場による壁が 非常に低かったという意味で)

そういう意味でも、最先端技術や情報を、惜しげもなく大衆に分け与えようと頑張る専門職が居なくなりつつある現代社会、「教育的配慮のできる専門職」が食っていけなくなった今の日本では
次世代になると 文化的貧困が一気に蔓延するのではないかという気がする。

(「情報が金になる」時代というのは、情報が金持ちや権力者に一極集中して
 「生の情報・最先端・くらしを豊かにする価値ある情報」から、庶民が締め出される時代でもある)

・各分野のエキスパートが 正確でわかりやすい日本語に翻訳して それを出版社が 最大でも千円札2・3枚で読めるように じゃんじゃん発行。販売網を日本全国にめぐらしてくれていた恩恵は
ものすごくでかかった(非常に大きかった)と思います。
 特殊な書籍(学術書)でも万札2枚でたいてい新刊本が買えたもの、

(子供のころ お小遣いを半年1年2年とためて購入した新刊本のほとんどが 今では絶版希少本扱いになっている。
 昔は 朝日新聞の紙面最下段の広告のページは、専門書の新刊本の広告が載っていた
 それがいつしか 週刊誌のつり広告と同じ内容のものしか載らなくなってしまった><)

 その出版社の文化的水準を維持するための、基本的な買い支えを継続的に行っていたのが、
日本の公立図書館の役割・司書たちの専門性であったのに、
だからまっとうな公立図書館のある地域に住んでいると、小学生でも 各地の大学の閉架図書や国立国会図書館の本を無料で取り寄せてもらって読むことができたし、これまでに何版も出版されてきた百科事典や辞書類の読み比べもできたのに
それを根底から否定して踏みにじり、図書館を ただの チープな読み捨て本の貸し出し場所に変えたのが、日本の議員たちであり、その動きを正当化してあおったのが日本の記者たちなんだよなぁ・・トホホ

 学術出版社・良心的書籍出版をつぶしたのが 同じく出版界の下層階級であったというのが
 ほんとに情けない話だ。これぞ下克上の下種さの極み><

 日本文化においても「悪貨は良貨を駆逐する」現象が起きてしまった><


(補足)
上記に付け加える観点として
 ファンタジー:人の成長過程における葛藤や分岐点に焦点をあてて物語られる 別世界とのかかわり
 SF:現代社会における諸問題に対する思考実験の場としての別世界

ただ 日本のSFは 漫談っぽいというか 物語的面白さ・語り口の良さや設定の奇抜さがメインのような気がしないでもない。身近的すぎて 普通の読み物っぽい印象が先に立つので分析しにくい('◇')ゞ
ある意味 TV的読み物が 日本のSF系のような気がする


(補足2)
イギリス系ファンタジー(一部北欧作家も入るけど広義にはフランスも入れた欧州系かな?)と、
アメリカの商業化されたファンタジーの違いは、
 イギリス系は、比較的 筆者が 読者に何かを訴えるメッセジー性が強く
アメリカ系は
 商業化された作品は、読者に一過性の夢を与えよう と企画されたもの
 作家たちは 自分の感性を主人公に託して 主人公の体験を通して読者も楽しむ娯楽要素重視
のような気がする

 例えばピーターパン
英国:1904年「ピーターとウェンディ」
「辛くて苦しい生活の中でも 心に灯りをともしてしっかり前向きに生きようね、それが大人になることなんだよ」というわけで ウェンディはリアルで母親となり実生活を積み 幸せな生涯を終えるが、 ピーターは子供しかいない国に取り残される。そこでは大人の象徴=海賊が時々子供を脅かしに来るが それをやっつけるのが子供たちの夢と冒険。そして自己中ティンカーベルの世界。
「精神的な貧困の世界」にとらわれたままの子供たちの国を描く 痛烈なアイロニーを含んだ小説

米国:ピーターが主役で 楽しむ「ごっこ遊び」の世界 永遠の楽園(=遊園地)ネバーランド

というわけで イギリスの作家が「ハリーポッター」を書いたときも 界隈では衝撃が走ったのだ
 コマーシャリズムと物欲にあふれ、まみれた物語世界だったから(笑)
 アメリカ映画の台本をそのまま活字にしたような物語という意味で 画期的だった。

 一応 ローリングさんは少年少女の成長を描こうと頑張ってシリーズを執筆したようだけど
 いろいろな意味で失敗したのは 彼女自身認めている。商業的には大成功したみたいだが。

(一読者としての感想を言えば、
ローリングさんの師匠のトールキンは、「成長概念とか 実社会へのメッセージ性」などガン無視して
自分の世界観のみを描くことに傾注
 そこを アメリカの批評家は批判したが、日本の読者は トールキンの描く世界に引き付けられた
 (実は私も♬)

一方ローリングさんの ハリポタ第1作は、物欲まみれの子供たちが集う学園モノで、まるで「蠅の王」並みの作風だったが、シリーズ全体としたら複数の世代の成長談が交差する世界観で・・
全体としてみれば 何を描きたかったの・・? いかにもハリウッド向けの世界だねぇ、描写が行き届いているわ、としか言いようがない。(ファンの人ごめんなさい) 

なので 私は 本で読むより 映画で見るほうが好きです。
(それでも ハリポタ第1シーズンだけは全部きちんと読みましたw

 ちなみにエンデの作品は 映画はいやいや歯を食いしばって視聴(;^_^A 書籍のほうは作風が好みでないので チラ見して撤退=あらすじだけつかんで終わりなので まともに「読んだ」とは言えないというか最初の2頁を読んだだけで耐えられなくなり、あとはチラ見であらすじだけ確認。)

なので ハリポタをファンタジーのくくりに入れることには違和感があるのが 私の個人的感想
 
コメント全2件
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木苺
2025年03月07日 16:09
03月01日 03時44分投稿文の誤字修正

x進学問答
〇神学問答
木苺
2025年03月01日 03:44
(本文への追記)

ナルニア国物語のC.S.ルイスと トールキンは 大学の教員仲間であり、ともに 自作を朗読・講評しあうグループの一員だったともきく。

ルイスは 日本語に翻訳されたものもされなかったものも含めて、ほとんどの作品が キリスト教的世界観とルイスの生活実感との 彼の心中での相互作用&現代人つまりルイスにとっての隣人へのメッセージ性を含んだものだったように思う。
 それは 幼いころに「ナルニア国物語」全編を読んだ時に、痛烈に感じた
 ルイスが子供たちに伝えたいキリスト教観が凝縮された作品だと
その一方で なぜ、アスランがライオンの姿をとっていたのかという点だけが謎だった。
タシの姿の原型がどこにあるのかはわかっていたが。
(一応 古今の神話は 各国の作家が翻訳したものをさらに日本語化したものを読んでいたのでw
 さらに 日本の出版社は 児童文学翻訳の挿絵をつけるときに 原作者の発想の根底となった事物
  それが 世界各国の遺物から触発されたものであったら それらの遺物の現物をじっくり研究して
  挿絵にするなど かなりの手間暇をかけて 原作者の世界観に沿った挿絵を描いて 日本の児童書につけておられた。
  だから 近畿在住であった私は 大阪・京都・奈良の博物館・美術館で期間限定展示されていた世界各国の名作・遺物を毎週のように見て育っていたこともあって、日本版限定の挿絵を手掛かりとして
原作者の世界観をより深く知る(推量する)ことができたのだ。
 その挿絵家の努力を ほんのりと伝えていたのが 翻訳者によるあとがき(それはある意味原作研究のに基づく解説をかねたものあったが)であった。

 21世紀あたりになって 大学の研究者による 日本語翻訳出版物は、翻訳作業を院生にやらせていたとバッシングが起きたが、それは 20世紀の 翻訳モノ著作物は 単に文章を外国語から日本語に転換するだけでなく 原作者の価値観・世界観(日本人から見たら 異世界の人物の思想・感覚)を日本人読者に伝えるという重大な使命を背負った営みであったということを 完全否定する行為でもあった。
  そして 日本の 翻訳出版部の文化的意味が 木っ端みじんに粉砕され、いまや 見る影もない
  そして 日本人は 井の中の蛙に・・ 諸外国に文化的に蹂躙され経済的に搾取されるだけの存在に

話を戻すと トルコに行ったとき 現地の博物館で アスランそっくりの巨大な 石版に描かれたレリーフを見て、その発掘の来歴を見て ルイスは これの存在を知ってたから、アスランを ライオンの形にしたのねと納得してしまった。

 ルイスは 今やイスラム文化圏とされている地域のそれより以前の神話と
 キリスト教的文化的価値観の融和
 そして 今に生きる同胞イギリス人のための キリスト教の根源的価値観・人生観を
 ナルニア国物語につめこんだのだろう。
  キリスト教の神髄ともいえる 子供にとってそして大人にとっても害にならない
  キリスト教のもっともよい思想的部分(価値観)だけを厳選して。

  すくなくとも 教会に行ったことのあるこどもならば 誰もが抱く疑問への答えとして。
  (説教にとらわれず キリスト教の根源の良いところだけを摂取してね、みたいな感じで。
   一応 私は 小1の時に半年ほど教会に通い 個人指導も受け その後も自力で聖書を読んで
   考えたすえに クリスチャンとたもとをわかった人なのでw)

一方のトールキンは ご本人曰く、子供のころのナニー(たぶん)が、かなり特殊なキリスト教的新興宗教のようなものに属する人で その人から 毎日おとぎ話のようなものを聞いて育って その世界に魅せられていたけど、両親(お母さんだったかな)が ナニーの 偏った思想傾向に気が付いて、解雇してしまった、自分は ナニーから聞かされていた物語の世界に魅力されていたので ナニーの話が聞けなくなったのが寂しくて・・ その後も 自分の中で紬ぎ続けた物語を形にしたのが 指輪物語であると言い切っている。もちろん ルイスも含めた自分のサークルの中で 講評をうけつつ作品を練り上げていったのだけどと。
 (これらは 日本語未翻訳の お二人の著作物(原書)を何冊かとりよせて、辞書を片手に 癖のある文体やら 文節の多い単語に挑戦していた、学生時代のひと夏に知ったこと。
 ルイスの文章は 1単語の文節数が多いが 文章構造は わかりやすかったのがありがたかった。
 イチバン頼りになりあてにできたのは 研究社の辞書でした。(他社の辞書は役にたたなかった) )

なので ルイスとトールキンのお二人を通して、浅学の私も なんとなく 現代における「ファンタジー」への向き合い方2パターンの存在を知ったような気がする、今にして思えば。

ちなみに ルイスの作品の中で 文庫本として日本語に翻訳され販売された作品の中で描かれている
大学教員グループや 結婚した女性の家庭生活・夫への不満と、家庭や夫婦間における「女性の扱われ方」の描写が 興味深かった。
(題名忘れた。 レモンイエローのカバーが付いていた。 寒くて書庫まで行くのが面倒なので題名不明でごめん)
なんとなく ルイスに 日常の一端に触れた気がして。
 英語で読んだ 進学問答のような悪魔との対話よりも そちらが先に翻訳出版されたのもわかるような気がする。