2024年05月27日 (月) 23:33
すみません、酔っています。
何故か今夜は代表作の「電波猫のお仕事」を書き始めた時の事を思い出しました。
あの時も、なんかモヤモヤしてて、何かしたくて、でも具体的に何かすることは出来なくて。
嘘ですね。
正確に言えば、具体的に何か行動することに付き纏う責任を負う事が恐くて、何かしたい、と、そんなことをしてはいけない、でも今のこれは嫌だ、だけど、これしか無い。そんな逆接に満ちた事をずっと考えていた気がします。
私はなろうしか読まないのですが、それ以外の、例えば個人HPに掲載されてる小説やエッセイ、ジャンルに拘らない「誰か」の書き物が好きです。
製本された綺麗な読み物も好きです。
時期、というよりも気分によって、メジャーレーベルから古典、様々な意味での「私小説」に至るまで、色々と読み散らかしてきました。
私は多分に読者としては不良で、作家の皆様に何かのレスポンスを返した事がありません。
今は珍しくなった文化ですが、個人HPでは「キリ番を踏んだら必ずレス」みたいな雰囲気をぶっちぎった事も一度や二度ではありません。作品は読みたい、でもそれに対して思った事、そこまでいかなくても何かに触れる前と、触れた後の不可逆的な変化を、誰かに知らせる事に、特に臆病になっていた様に、今となっては思います。
そんな中で、日々、私の読み物に足跡付けていって下さる皆様に、まずは心からの感謝を捧げます。
「電波猫のお仕事」は、私の思う面白いを全部つめこんだ闇鍋のような作品になりそうです、というよりも既になっています。学術論文の様に切れ味鋭く、前提から結論までを無駄なく書き切る様な、そんなモノとは真逆です。仕事一筋の極めてストイックな主人公が、初めて「自由」になったときどうなるのか、どうするのか。
そもそも、どうする?という根拠を何処に求めるのか。
生き物は自由です。ですが、何故か分かりませんが、皆が自由を放棄したがります。生きるのも、息をするのも、目を開けることすら、誰にも強制されていません。
私達が産まれたときに渡された真っ白な画用紙は、大きさの違いこそあれ、蝉や猫が渡されたモノと相違ないのではないでしょうか。
この世の誰よりも聡明で博識な「ダレカ」になった時、人は、或いは人とは違う知性体はどんな「絵」をこの世界に書くのでしょうか。
それは誰にも分かりません。だってそんな人は、生物は今までいませんでした。分かりません。いたかも知れません。でもそれはまだ誰にも見出されず、評価もされていません。
彼は、もしくは彼女は、幸福を感じたでしょうか、それとも輩の不在を悲しんだでしょうか。
もし、貴方ならどうするでしょうか?
どんな色にも染まるであろう、そんな無垢な世界に独りぼっちにされた貴方は、希望を見出しますか?それとも?
そんな話を誰かとしたくて、でも直接話すのは恐いから、私は小説を書くことにしました。
半ば以上に酔いの勢いに任せて、書きためていたプロットの辻褄を合わせながら。
拙稿を読んで下さる皆様に感謝を。
私の思い悩んだことが、仮初めの結論が、どうか貴方の生の助けとなりますように。
頬の朱きは酒のせい。
三文数えることすら儘ならずとも、贈ってくれよう誰かに幸あれ。
草々