酔っ払いの戯れ言2
2024年12月30日 (月) 22:36
 すみません、酔っています。
 今年ももう終わり、所謂、年の瀬に両肩まで埋まってしまっています。今年の初めに定めた目標を、叶えられなかった誰しもが、その言い訳を必死になって探しているのかも知れません。
 言い訳、って何なんでしょうね?
 何というか、悪いイメージのある言葉かも知れません、知れませんと言うのは、私の中では悪い事だとは思っていないからです。それについては、最後までお読み頂ければ分かるかも知れません。
 こんな活動報告を読んで頂いている皆様は、恐らく、私の書いた何かしらを読んでくれているのでは無いかと思います。
 私は、運命とか宿命とかが嫌いです。
 だから、私の書く物語ではそういった何かに縛られた人は、不幸な何かとして描かれることが多い、そう自認しています。
 例えソレがどんなに有益であっても、どんなに必要であってもです。

 少し視点を変えましょう。
 貴方は幸福だとします。満たされた生活を送り、ゆっくりと老い、幸福に満ちながらこの世を去る。
 でも、その影に生涯を制約され、不自由に過ごす誰かの犠牲がある。
 どうでしょうか。貴方の生活を支える影に、自分には何の責任も無いところで、しかし、恩恵だけは受け取っている。そんな近くて遠いところに、貴方より遙かに不幸な誰かがいるとすれば。
 ソレは幸福ですか?

 靴底を見て下さい。その裏には誰かの血がベットリと。
 背中を見て下さい。そこには助けを求める手形が。
 耳を澄まして下さい。微かに悲鳴が聞こえませんか。

 実はこれは哲学においては古典の一つとも云えます。「幸福の街」などと言われることも多い命題ですが、残念乍ら、その完全な解決方法は見出されていません。圧倒的多数の最大幸福と引き換えに少数の不幸を容認するべきか否か、難しい言葉でいえば、こんな風になるかも知れません。
 
 さて、最初の問いに戻りましょう。
 言い訳、って何なんでしょうね?
 貴方の幸福を担保する何かが、言い訳にしか聞こえない誰かがいる。そんな風に考えると、とても怖い気持ちになります。
 悪いことは何もしていません。少なくとも自分の認識の中では。
 善良に生きてきたはずです。少なくとも自分の認識の中では。
 少なくとも自分の認識の中では、そうなのかも知れません。
 私達は自分の認識の中に閉じ込められている、そうなのかも知れません。少なくとも私は産まれてから、自分以外の誰かになったことはありません。つまり、私は産まれてから、ずっと連続した私であって、それ以外の誰かの視点に立ったことは一度もありません。
 想像することは出来ます。
 しかし、残念乍ら、ソレはあくまで想像であって、それ以上のモノではありません。

 だから、人は他の誰かを求めるのかも知れません。
 露悪的に言えば、それはある種の承認欲求なのでしょう。私は間違っていない、と他者からも見られているという、その様な歪な愛なのかも知れません。
 善良に見れば、それは自浄作用なのでしょう。人を観察し、その反応から自らを戒め、或いは伸ばし、そしてソレを続けることで、限りなく善良なナニカになっていく。

 見方一つを誤れば、天界すら血の上に浮かんだ蓮の花。

 何を言いたいかと言われれば、答えに窮する酔漢ですが、今年の功も罪も決めるのは、自分自身なのでは無いでしょうか。
 そんな風に思うしか無い。残念乍ら、全能では無い私達には、ソレが一つの限界なのでは無いかと思ってしまいます。
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