Apathy
2012年11月16日 (金) 23:01
左に寄れ。
此処はTokyo City――、




左に寄れ。
英吉利
或いはそれでも、
此処はTokyo City――、
Godardもそう云っていることであるし、
左に寄れ、
若しくは
“右側に気をつけろ《Soigne ta droite》”。




英吉利
或いはそれでも
そうは云っておらず
Giddensに限っては
左に寄れ、
ただし央によるべしと。



中道は
神の正中であると。
何れも戦後の事であった。
左に寄れ、
今は昔
此処はTokyo City――、







活動報告なのに活動していない報告ばかりを垂れ流すのですね、というむきもありましょうが、エッセイもきちんとした活動だとしんじています。しんじるものは救われろ。

さて上掲の詩は技法にも満たないかもしれませんが、ことばをいくつか添えてやるだけで経験則が、政治、儀礼という次元へ遷移するという小手先手法をとっているつもりです(※啓蒙の意図はありません。ちなみにわたしのPolitical Compassは政治的中立・経済的左派。具体的には、政治的な右・左度(保守・リベラル度) 0、経済的な右・左度(市場信頼派・政府介入派) -3.33、分類は 保守左派)。

……などといったことについて、小説においては、小説の技法、あるいは小説の技巧(Lodgeが有名?)よろしく体系立った書物が読まれているという。こと詩においては、技法や技巧が意識されることが驚くほど少ない。前者は「小説にはルールがあるんです!」(ばばーん)みたいな、ある種黄門様の印籠のごとく扱われているのに、後者にいたってはそもそも軽んじられる以前に、えっ、そんなもの知りません! でもいいじゃないですか、形式なんてありゃしないでしょう! ――おほほい、おほほい、魑魅魍魎で混沌とした世界かもしれないけれども、そりゃないでしょう、こりゃ詩人も不遇であるわけだ道理で、――という主旨のことをブランド語りたがり偏見とは少数サンプルから導いた統計量である。を書いたわけでありました。

とはいえ一概にその軽んじられ方ばかりを一方的に批判できないのも事実。えっ、どういうこと? それは詩の方法論とか、詩の作り方、みたいな書物が、「そりゃあんたの感覚と感想じゃないですか! 技巧と技法をおしえてくださいよ!」ということのなんと多いこと! あなや! という状況だからであります。手前味噌であるものの、幸いにして私は野村喜和夫教授や佐佐木幸綱教授の講義に接する機会に恵まれたものですから、技巧や技法を学ぶこと、およびその糸口をみつけることができたという次第でありまして、詩のレッスン、とかだけを読んでも全然わからぬ日本語でおk状態。もちろん全うできていないからこそ素人なのでありますが、しらないよりかはしっているほうが、せかいはよりたのしいものとしてたちあらわれるのでありました。

そんな本日の詩とエッセイのタイトルは「Apathy」。最大級の皮肉と真理かなとおもったりします。
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