2013年01月09日 (水) 09:39
鵜殿長照の生年、『氏長君』作中では1532年生まれとしていますが、史実での生年は不明です。
ただ、父・鵜殿長持の生年が1513年、子・氏長の生年が1549年であるため、この前後であることはほぼ間違い無さそうです。
(ただし、長持の生年に信憑性は殆ど無い)
ですが、ここで問題が一つ。
それは「長照の母の年齢」です。
作中でも触れたと思いますが、長持の正室、長照の母は今川義元の妹。その義元の生年は1519年です。
当然、妹な訳ですから、長照母の生年は1519年以降と言うことになります。
そうなると、彼女は今で言う小学生高学年くらいの年齢で長照を出産した可能性が高いのです。
一応、前田利家の正室・まつ(芳春院)は12歳で長女を出産していますから、決してあり得ない話では無いのですが、実は彼女、長持とは再婚なんです。
いずれ作中でも触れると思いますが、最初の嫁ぎ先は鵜殿家の隣、竹谷松平家。家康の親戚ですね。
そこの当主・松平親善の妻になり、長男・清善を産んでいます。
その清善の生年は、某所によれば1505年。
……これっておかしくないかな?
流石に清善の生年に関しては、某所の記述が間違っている可能性が非常に高いですが、仮に長照の生年を1535年、長持室の生年を1519年としても、長持室は出産時16歳。嫁いだのはその1~2年前、14歳頃であったと考えられます。
当然それ以前に清善を出産しているわけですから、彼を産んだのは最低でも12~13歳ごろの話になってしまいます。
前述のまつの例から、決してあり得ない話ではないですが、どちらにしろ「松平清善を出産した後に親善と離縁、長持に嫁ぎ、長照を出産した」と考えるのは、少し無理があるような気がします。
再婚したという伝承が間違いなのか、義元の「姉」であったのが、誤って「妹」として伝えられたのか。真相はわかりません。
この件について詳しい方がおられましたら、是非ご連絡ください。
そう考えれば辻褄は会いますね……。
氏親の長女(A)が親善に嫁ぐ⇒清善出産、その後(1530年前後?)に死亡⇒同じく氏親の娘(B)が嫁ぐ⇒離縁⇒Bが長持に再嫁⇒長照出産。
こういう事ですね。納得です。
そうなると離縁した理由が気になるところですが……。やっぱ松平清康関連だったりするんでしょうかね。もともと今川家は竹谷松平家を三河進出の足掛かりにしていたけれど、彼らが清康についてしまったので鵜殿家の取り込みを図った、とか。