芝蘭通信[7.7.2]
2025年07月02日 (水) 12:34
 自分は名義を肯えてわけて小説を書いているが、今までにそれらしい批評をうけとったことはない。自分はそのことに今は不満をおぼえていない。なぜなら、不満をおぼえる以前に、自分がどうにも釈然としない点が解消されなければ、不満を覚えることもできないことに心附いたからである。
 なぜ文学への批評がないのか。文学とはこの場合、自分が書いたものではない。かつて他者が書いたものだが、それへの批評がないことに自分は憤っているのであって、自作への批評がないことに自分はそもそも憤っていたのではなかった。
 文学が芸術の範疇であるならまずは模倣から――それは当然のこととして、模倣を批評してゆくなかでスティルは獲得される。「模倣 + 批評 = スティル 」である。批評は音楽鑑賞家のように作らず且つ鳴らさない人間がやるのではなく、文学においては、書く人間がまずはやることだ。やらねばならないことではないか? なぜなら、でないとスティルの独自性は獲得できないから。
 書かない人間がやる批評などに意味があるのだろうか?
 これは私見だが、文体模倣の期間を経ていない人間のやることなすことは、文学ではない。当代では文学を四方から囲い、そこにしかありえない独自の芸術性を担保してきた垣根は低く設定されている。誰もが気軽にここに入り、通り抜け、そして出られる中庭のようになっている。あたかもただ一方から他方へ通り抜けるためにあり、他の芸術たちの館のあいだをとりもつ中庭のように、しかし中庭自体は芸術として独立できないかのように。
 一度は文学を標榜しておきながら、音楽を引き合いに出し、映像コンテンツを作成し、写真をあげてみたりする時、人は文章表現に飽きている。それは文章というものが一個の芸術たりえないことを暴露していると見える。その人自身が、文学が諸芸術の中庭のような、誰でも通り抜けられる垣根の低い場所にすぎないことを認識しているのだという風に自分には見える。
 あまり文章表現の深淵の底いなさを見くびらないほうがいい。そもそも書かない人間がこれを見くびることについて、自分は何も思わないが、実際に書いている人間がこれを見くびっていること以上にいきどおろしいことはない。
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