2023年03月21日 (火) 22:05
最近、低糖質のおやつにはまっています。桑の葉のお茶を加えた、おからの蒸しパンとか。オートミールを使ったりんごの重ね焼き(ブラウン・ベティ)とか。
あまり凝ったものは作りませんが、混ぜて焼くだけのものを、ちょいちょい作っています。なお、桑の葉は、体が糖分を吸収するのをカットしてくれるので、糖質制限中の人には優しいお茶です。
霊的な飢え、についてですが、
これについては、牧師がいなくなった教会の人がコメントしていました。
牧師も人間ですので、いつまでも生きているわけではありません。病や怪我で亡くなることもありますし、高齢になられると、引退されることもあります。
そうすると、牧師のいなくなった教会、となります。
ここからは、教派によって対応が違ってくるのですが、
次の牧師や司祭が、審議の後に派遣されてくる教派もあれば、
自分たちで次の牧師を探して、着任してくださいとお願いしに行かねばならない教派もあります。
プロテスタントの教会の場合、後者が多いのではないかという気がします。
神学校をいくつも設立しているような大きな教派の場合は、待機中の卒業生などと連絡を取ることができるので、三年以内に決まることが多いと思われます。
しかし、単立の教会や、周囲に同じ教派の教会がほとんどない、といった状況の教会の場合、次の牧師が決まるまで、長く空白の期間が続くことがあります。
その間、信徒の方が交代でメッセージをして、礼拝を続けるのですが、
説教、と呼ばれるメッセージと、証、と呼ばれる個人的な体験などの話があって、礼拝の中で、どちらも語られることがあります。目立つ印象になるのは、証の方です。説教はあくまでも、聖書の言葉の取り次ぎです。なので、地味な印象の話と感じられることが多い。
説教は牧師が、証は教会に来ている信徒の方が、語られることが多い。
そうして、聖書の言葉の取り次ぎと、個人的な体験を話すこととは、違うものです。
牧師がいなくなった教会で、信徒ががんばってメッセージをする。そのこと自体はよいのですが、どうかすると、自分のしゃべりたいことを中心にしゃべってしまう、聖書の取り次ぎというより、自分の個人的な体験を話してしまう、証っぽくなってしまう、ということが、起きてしまいます。
聞いている人の反応があった方が、話す人は、ちゃんとできた、と思ってしまうからかもしれません。
しばらくは、それでも違和感はありません。
しかし、一年、二年、その状態が続くと、「霊的に飢える」という状態になります。
* * *
この「霊的な飢え」を、説明するのは少し、難しい。
初めてこの言葉を聞いた時、一瞬、意味がわかりませんでした。
言ったのは、三年以上、牧師がいない状態の教会に属している人で、
「証を聞くと、最初は元気になる。面白い話をする人もいる。こんなことがあったんだと、共感もする。
でも、証しか聞けなくなると、その状態で何年も過ごすと、霊的にものすごく飢えてくる。
とにかく、なんでも良いから、聖書の話が聞きたい、聖書の言葉を聞かせてって、そんな風に思えてくる」
それってどういう状態なんだ。と、聞いたときに思いました。
そのあとも、この言葉がずっと、気になって、残っていました。
霊的に飢える。
どういう状況なのだろう。そうして、その状態になったなら、どうしたら解消されていくんだろうかと。
そう思っていたのですが、今回、わたし、似たような状態になりました。
母が亡くなってから、雑用や雑事に追われ、家の片付けも終わらず、あれもやらないといけないのにできてない、これもやらないといけないのにできてないと、ストレスがため込まれた状態になっていました。
気が休まらない。
でも、やることは、どんどん出てくる。
その状態で、何か気晴らしになるようなこと、あるかなあ。と、
電子書籍を。よせばいいのに。手出ししてしまい。
ぼーっとした状態で、ちょっと気になるフレーズの出てくるラノベを次々と。購入して流し読みしていました。
今ならわかる。かなり追い詰められていた。
「読み捨てる」タイプの小説、というのがあります。
同じようなシチュエーション、同じようなセリフ、同じようなストーリー展開。主人公の名前と髪の色が違うだけ。みたいな。
三か月ぐらい。そういう「読み捨てる」タイプの小説ばかり、ひたすら読んでいました。
くたびれました。
読んでいても脳が固まっているというか、止まっているというか、そういう感じにしかならない。
でも文字は続いているので、惰性で次のページをめくっている。
読んでも読んでも、何も残らない。時間を浪費した罪悪感と、ストレスが溜まっていくだけ。という体験をしました。
ただわたしの場合、いろいろあって、絵本を見たり、聖書の詩編を読んだりしている時間があったので、そこでどうにかバランスが取れていたみたいです。
でも、静かにストレスはたまっていた。で、あるとき、
次に買う本を決めようとして、ダウンロードしたサンプルに、シェイクスピアのソネット、という言葉が出てきた。
その言葉がなぜか気になって、シェイクスピアの文章をネットで探して、
サンプルに出てきた文章が見つからないので、悩んだのちに、キンドルで購入。あ、これかーと。思いつつ、
次にリルケの詩につながり、ルバイヤートにつながり、タゴールにつながり、ゲーテにつながりました。
ちょっと手当たり次第になってた。
読んでいると、楽しい。
楽しいというか、何かが注がれているような気がする。
文字を読んで、その文字から、イメージする。
色や、香りや、
流れる水の音、吹きすぎる風の感触、土埃、花園のやさしさを、
脳裏に思い浮かべるようにして、言葉が作り出す世界に遊ぶ。
それが、楽しい。
そこから気が付いて、聖書の詩編などをもう一度、読みなおしたり。
声に出して発音してみたり、しました。
楽しいのです。
心のバランスが、取れてくる感じがする。
ああ、そうかと。その時に思いました。
これ、霊的に飢えている状態だったのか、と。
* * *
牧師のいなくなった教会の人の言った、「霊的な飢え」と、わたしの体験した、ストレスで頭が動かなくなった状態からの、「飢えてる感じ」は、
同じものであるかどうかは、わかりません。
ですが、いろいろと、考えたり、試したりするきっかけにはなりました。
詩を読む。というのは、地味な作業のようにも思えますが、
言葉の背景やイメージが、凝縮されている、研ぎ澄まされた文章には、
その言葉があらわしている現象や物体、風景などを思い描くことで、
言葉の世界に遊ぶことができる。
それが本来の、本を読む、という作業だったんじゃないのかな、と今、思っています。
言葉のあらわすイメージを脳裏に思い描くのには、それなりに見たり聞いたり触れたりする体験や、
自分なりに調べたりする、知識を蓄えておく作業がいります。
具体的には、美術館でいろいろと見たり。コンサートで音楽を聴いたり。図書館で図鑑を見たり。実際に花を育ててみる体験をしたり。
雨上がりの空に虹を探したり。草のにおいを感じたり。
夜明けの光の変化を眺めたり。星のまたたきを、夜空で数えたり。
そうした体験を蓄えておくと、言葉のイメージがしやすくなる。
面倒くさい作業かもしれません。
でも、やってみると楽しいです。