SFファンタジーは邪道なんだぜ? あとがきもどき
2013年12月29日 (日) 11:16
 あとがきもどき

 このたびは「SFファンタジーは邪道なんだぜ?」をお読みいただきありがとうございました。
 こちらはあとがきのようなものではございますが、ちょっとした考察と解説をメインに進めてきたいと思います。
 解説はともかく、考察というものは本来、作者以外の方が作品に対して行ったものを載せるものなのですが、この場では作者が自分で自分の作品を考察したものを書かせていただきます。
 と、いうものも、この作品自体がとある疑問に対しての答えを探るため、というのをメインにして書き始めたものだからです。
 
 当作品のタイトルを一字一句違えずにYahoo、MSN Japan、Goo、Googleなど大手検索サイトにかけますと、「小説家になろう」さまのおかげさまで当作品がトップに出ます。次はおそらく「なろう」さんの作品をメインに取り上げている某大型掲示板のまとめサイト。さらにその次くらいに、SF系の細かなジャンルわけのコピペが載せられた、やはり某大型掲示板が大元にある昔の記事を発見できるハズです。十年一昔とは言いますが、流行り廃りのスパンの早いネットにおいてこのくらい前はまあ昔といってもいいでしょう。
 この記事のコピペの中のとある一文こそが、この作品を書こうと思い至った切欠です。タイトルもほぼそのままですしね。

 言うて、PSO&PSUシリーズ、スターオーシャンシリーズや、スーパーロボット大戦では主人公格を努める魔装機神シリーズ、これら商業作品にとどまらず「なろう」さまの中で公開されている作品の中にもSFファンタジーに分類される作品は多く見られるように思いますが、なぜこの分野だけ邪道扱いされているのでしょう。
 作者自身、このジャンルを読んでも特に邪道だなどと感じる事なく、楽しんで読んで遊んでおりますので、ずっと疑問のままでした。
 上に述べた記事の中でも多少の議論はされておりましたが、この「SFファンタジー」というジャンルに焦点を絞ったものは少なく、もっぱら「SF」というジャンル全体について広く話されています。作者の疑問はあくまで「SFファンタジー」がなぜ「邪道」なのか、でした。
 そこで、
「ちょっとこれテーマに作品書いてみたらなんか見えてくるんじゃね?」
 という動機で書き始めたのが当作品です。

 おそらく、そこそこの前提知識がないとわかりづらい上に、作者の独断と偏見を多いに含みます。ですので、小難しい話しは苦手だ! という方や、おまえの意見なんかしらねーよ! という方はブラウザバックを強く推奨します。


 ではさっそく、邪道扱いされている(されていた?)有力そうな理由候補の一つ目。
「SFとファンタジーという二つのジャンルが根本的なところで似すぎている」
 という点です。これは他作品を読んでいるだけの段階からもなんとなく思っていた事ですが、実際に書いてみてよりはっきりした気がしました。

 SFにもファンタジーにもこだわらず、多くの物語では、劇中の出来事に説得力をもたせるため、登場した道具や現象に対し登場人物やト書きがその性質を解説する、という手法をよく用います。
 例えば、多過ぎる敵の足を少しでも鈍らせるために平原に無理矢理沼地を出現させる、という場面。
 SFだと反重力なり斥力場なりを使って水を浮かせたり空気中の水分を凝結させたりして大量の水を確保し、それを地面に混ぜる。
 ファンタジーでは魔法というファクター使って水を発生させた、で通じてしまいます。
 当作品ではあくまでSFファンタジーであることを意識し、その中間を行きました。 アルフェーイという魔力の塊のような謎の生命体が魔法を用いて近くの川から大量の水を運んできて地面に混ぜた。 その補助をするために風の魔法でもって雨雲を発生させて雨を降らせた。
 深く考えなければこれもこれで成立していると思います。 ところが深く考えようとすると、疑問が生じます。
 この場面は、SFでしょうか? ファンタジーでしょうか?
 この場面が純SFならアルフェーイなんていう謎の存在を出現させてはいけません。 或いは彼らの存在に対し科学的に聞こえるフィクションを立ててまず説明をつけ読者を納得させなければいけません。 魔法とはなんぞや、魔力とはなんぞや、という事ですね。 当作品中では結局それが明かされる事はありませんでしたがこれには意図がありました。 理由はあとで述べます。
 逆にこの場面が純ファンタジーなら「~の魔法を使った」で片付けられるわけですからわざわざ雨雲を作ったり川から水を運んでくる必要もありません。少し前の分で水を発生させた~、と述べましたが、もっと言えばいきなり「沼地を発生させる魔法を使った!」でも構わないわけです。
 こう並べるとSFとファンタジーは相反しているもののように見えますが、根本の部分はほぼ同じです。
 その辺りを説明するためにも、二つのジャンルを少しかみくだいて見ましょう。

 SFは現実に存在しない、あるいはまだ確認されていない謎の粒子や法則を使い、劇中で起きた不可思議な現象を説明します。 その途中で現実にも確認されている現象や法則を盛り込む事で説得力を強めるわけです。 タキオンにミノフスキーに重力子に、ちょっとマイナーなところではトラパーなんてのもありました。
 当作品中では電子(エレクトロン)によく似た性質を持つ粒子、幻子(イリュートロン)の存在なんてそれっぽい設定を作りました。
 つまり、現実では起こり得ない現象を劇中で起こしてしまった時、または起こしてしまいたい時、
「こういった現象が起きるにはいったいどういう法則が存在すれば説明がつくだろうか」
 という考察のもと、こういった架空の物質や架空の法則があるんじゃないかなという一種の「設定」が発生し、それらを利用したものがSFというジャンルである、と言えるわけです。

 ファンタジーはもっと大雑把です。
 魔法という謎の現象が存在していればたいていのものはファンタジーに分類されます。 エルフやドワーフ、獣人といった異種族が居ればさらに確かなファンタジーになりますが、必ずしも居るとは限りませんね。
 そしてこの魔法というやつもクセモノで、使用するための代償や素質は作品ごとによって全く変わります。
 マナや魔力といったわりとメジャーなエネルギーを使ったものですら、マナを持つのは特定の種族だけ、とか、あらゆる種族が自然の魔力を利用できるよ、とか。 魔力とかあるかわかんないけど特定の手順を踏めばみんな同じ事ができるよ、なんてものも。
 仮に作中の舞台設定が現代の地球で、人間以外の種族が登場しなかったとしても、魔法さえ出てきてしまえばそれはファンタジーになる、と言えるかもしれません。

 ではこの二つのジャンルの違いはなんでしょう。
 どちらも、各物語の主役やら悪役やらがやらかした事が何だったのかを説明するための舞台道具でしかなく、現実にも説明に使われたそれらが存在する必要はありません。 むしろかけはなれている方が喜ばれる事もあるでしょう。
 それぞれのジャンルの根幹を担う、未知の粒子や法則と、魔法という技術と、どう明確に区別をつければいいのでしょうか。
 これは日に日につけ辛くなっています。
 ハッキリ説明されているものがSFで大雑把なのがファンタジーだ、なんて乱暴な結論も出せますが、例えば
「濃密な魔素が獣を侵食し、細胞のひとかけらから変異させる事で魔獣が生まれる」
 とかいう設定のあとに、この魔素というものの性質についてこまごまとした説明がハッキリと付け加えられたとしても、おそらく大半の人がファンタジーだと思うのではないでしょうか。
 ところが、
「イリュートロン粒子濃度の高いエリアでは野生動物が突然変異をおこしやすいと、統計で出ている」
 などと表現方法を変えてしまえば、この前後に細かな説明がなくとも急にSFっぽくなりませんか?
 当作品中でイリュートロンというものの存在を深く掘り下げなかったのも、それが登場した段階でSF色は出せているのに、さらに解説する事でせっかくのファンタジー要素がSF要素に飲み込まれてしまうのを嫌った、という意図からでした。

 少し長くなりましたがつまるところ、
 SFになるかファンタジーになるかが作家の匙加減、筆加減、指加減で決まってしまうくらい、SFとファンタジーというジャンルが近く、境目があいまいである。 これにより
「読み手側としても、どっちを読んでいる気になればいいのか分かりづらくなってしまう」
 というのが、私が考えた、邪道扱いされている理由候補の一つ目です。

 余談ですが、ふたつのジャンルがよく似ているのは、現実のサイエンスが錬金術や魔術といったファンタジーと同じ物から生まれた学問であるという歴史的事実が根源にあり、一時は全く違う、むしろ相反するものだといわれながらも、進歩したサイエンスが再びファンタジーに近づき始めた、というところに起因するものがあるように思います。


 二つ目の理由候補ですが、一つ目の候補の中で語っていた事も大いに関係してきます。
 一つ目の理由を説明する段階で、二つのジャンルの定義についても軽く触れましたが、これらはこういう定義づけもできる、というだけの話しであって全ての場合でそういう別け方をされているわけではありません。
 こういう時に資料として出すべきものではないのかもしれませんが、ウィキペディアを見ると、この二つともが現状では厳密に定義づけされているものではないとわかります。
 SFに関しては小説のジャンルではなく、物事の見方・考え方の種類であって聖書や古事記や竹取物語もSFとして読める、なんていう意見まであるくらい、あいまいなものです。 ここまで来ると、ロックンロールとはなにか、とあまり変わりません。 ジャンルとしては存在すると言い切ってしまえるものの、具体的にその内容を問われると途端に言いよどんでしまい明文化もしづらいもの、ですね。
 そこで仮に上で述べた
「科学的考察にもとづくフィクション」
をSFとし、
「魔法が存在する世界を描いた」
ものがファンタジーであるという定義を採用してしまうと、SFファンタジーというジャンルは、なんらかの理由でSF的に説明できないものをファンタジー的に肯定してしまえる、という事になります。
 これは物語のルールを根底から覆すもので、その作品の作者があらゆる好き勝手を行ってもルール違反にならない、という事に違いありません。
 要するに、「なんでもあり」という事ですね。
 「なんでもあり」じゃ先がわかりきってるから面白くないだろう、という意見の方も多いと思いますので、これが二つ目の邪道扱いされる理由候補です。

 さてここまでそれっぽい話しを並べ立ててきましたが、個人的にはどちらも邪道扱いされるには理由としてまだ弱いと思うのです。
 昨今はむしろ「なんでもあり」で「むちゃくちゃ」な作品の方が人気が出たりしていますし、作者自身もそれがダメな事だと思えません。
 ご都合主義に勧善懲悪、主人公の唯我独尊が全否定されるならば水戸黄門や遠山の金さんといった作品が長く続いたわけはありませんし、この二つの要素を盛り込んだ作品が新たに生まれてヒットを飛ばす事もないでしょう。
 そもそも娯楽作品になにをいっているんだ、と。
 なんでもありで面白くなくなっちゃうのはジャンルのせいじゃなくて、作者の資質と、読者の好みの問題だろう、と。

 以上の事から、ここに「邪道と切り捨てるにはちょっと乱暴すぎやしないか?」というのが私の結論でした。


 ではここからがあとがきのようなものです。
 ジャンル関係なく、一つの作品として「SFファンタジーは邪道なんだぜ?」を作者側から見返しますと。

 えらいちっちゃくまとまっちゃったな、という一言に尽きます。 しかもずっとこのままのタイトルだとこの考察まで含めないと成立しない作品です。

 もともと考察を目的とした作品だったのでそれでも良いと言えば良いのですが、
「無限に分岐する並行宇宙」「並行宇宙まで手を伸ばせるほど進んだ科学」「地球より大きな惑星」「魔法の存在との邂逅」
 壮大になる要素は満載されているはずでした。

 壮大な要素をふんだんに使った続編というのを書きはじめても不自然にならない程度の余地は残しておきましたが、おそらく続編を書くとしてもタイトルが変わるでしょう。
 むしろ、変えないとダメでしょう。

 でも次投稿するのはもっとわかりやすいものになるんじゃないかなー。

 なお、考察に対する反応は、おそらくここで議論を始めますと終わりどころがありませんので、勝手ながらご遠慮願いたいと思います。
 ここでおこなった考察は、作品を書き始めたきっかけがこういう事だった、という理由の説明と、自分なりの結論づけに過ぎません。

 作品そのものに対するご意見ご感想へは、出来る限り目を通させていただきますが、おおげさに考えず気が向いたら軽い気持ちでお寄せいただければと思います。


 純粋に作品に対しての意見は今一つ煮え切らないものが残りましたが、これにてあとがきもどきは終わりでございます。
 ここまで読んで下さった方、ほん作品ならびにこのような長文に最後までお付き合いいただきまして誠にありがとうございました。
コメント全2件
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 コメントありがとうございます。
 仮にこれの続編を作るとすれば、おそらく感じられたであろう辺りの物足りない部分もちゃんと補っていくように描くと思います。 今のところ、漠然とした案くらいで予定もなんもありませんが。

 こういった動機で書き始めるだけならまだしも、それを公開するという事についてひとまず受け入れていただけたようでよかったです。
宇治
2013年12月30日 23:52
完結乙です
十分楽しめましたがところどころに肩透かしというか物足りないところを感じたのはこの作品の目的のベクトルが「楽しませる」や「何かを伝える」といった読者へ向かっているのでなく、作者様御自身の思索のためだったからなんだと納得しました
非難しているわけでは全くなく、そういう動機もあるんだな、と

SFとファンタジー論についてはいろいろ反応してみたいですがまあ確かにきりが無い議論なので止めときますww