2014年08月27日 (水) 17:56
なんとかできそうだと判断しまして、更新を再開いたしました。
ここまで報告。
ここからはわしの独り言のようなものなので、まあ読んでやってもいいぞ、という方だけお付き合いください。
初七日、二七日も終えて状況はだいぶ落ち着きました。
残された祖母の認知症だけが心配ですが、わしから見て父の世代、祖父母からすると息子娘の世代がまあなんとか団結したので、孫であるわしらの世代はあまり動かなくともいい状況です。
それでも、喪に服すならせめて四十九日までは、まだ趣味でしかない執筆活動は自重すべきなのかもしれませんが、生前の祖父はそこまで厳密にはこういう事を気にしない人だったので、まあいいかなと。
祖父が現役で漁師をやっていた頃は、地元の漁協では歴代で最も長く組合長を務めたとか、本土復帰の前後で頭にヤのつく自営業の方々がのさばっていた頃は組合長としてその幹部と真正面からぶつかりあったとか。 幹部、というのは多少話しを盛っていると思うのですが、実物の拳銃を目撃したというのは本当だったようで。
他にも不発弾を二つもどこからか拾ってきて石で叩いて解体しようとした次男を猛烈なタックルで止めたとか。
長男をいじめていた悪ガキを自ら懲らしめに行ったりだとか、
戦前、戦中、戦後直後を経験し生き抜いた世代でしたので、いろいろと武勇談を持っている祖父でした。
幸い、徴兵される年齢になる前に戦争が終わったので戦場には出なかったようですが、戦前からちょいとばかり複雑な家庭環境のもと、戦争で実兄を亡くしさらに複雑な境遇に陥ったりと、戦争だけがつらいのではない、戦後を生き抜いた者もまた辛かったのだと思わせる生き様の人でした。
若い頃は五十肩を医者にかからず自力で治したとか、体の丈夫な人だったのですが、逝く時はあっさりと逝くものですねえ。
心臓弁膜炎だそうで、もともと心臓の薬を飲んではいたようですが、父たちも薬を飲んでいた事を亡くなってからはじめて知ったそうです。
ずっと碁を打っていて頭もしっかりしており、本人も体の丈夫さに自信を持っていたあった事、
その自信と、翌日がちょうど健診日で明日病院にいくからと発作が起きても救急車は呼ばせなかった事、
祖母は気が動転するとちゃんと動けなくなる性質だったのと、沖縄の中途半端な山の中腹で家屋が妙な位置に建っているせいで、気が動転した祖母が近所の方に助けを求めるのも遅れた事、
様々な要因が重なって、結局救急車を呼んで救急隊が来た頃にはすでに息を引き取っていたようです。
心臓病の発作というのは息苦しさや閉塞感、めまいや頭痛などが自覚症状として出るそうですが、耐え切れないほどの激痛というのは無いようで、死に顔も眠るように安らかなものでした。 ただ、あれは死化粧のおかげもあったのだろうけど。
痛みが少なかったというのはせめてもの救いでしょう。
また、死に方が、中途半端に生き残って妻や子供たちに手をかけさせたくない、という生前の希望通りだったようで、年をとってやわらいでいたとはいえ転生の頑固さを死ぬまで貫き通した、という印象を受けました。
祖父の死は、死そのものは悲しいのですが、身近なところに「かっこいい死」の見本ができたような気もしてなかなか複雑です。
わし自身のそれは、まだ六十年は先に回したいところですが、ね。