2016年6月25日:翻訳とイメージ
2016年06月25日 (土) 21:58
 某国畜生機構離脱感謝祭を一人で勝手に開催しようとした結果、突発的な投稿に踏み切ることとなりました(某国が畜生なのか、某国が畜生な機構から離脱したのかについての判断は、皆様にお委ねします)。

 そんなわけで、『ラヴ・アンダーグラウンド』の最新話、29.少しも寒くないわ(Холодное Сердце)を、先ほど投稿いたしました(こんな感じで、しばらくの間は、なにか世の中に変化があれば投稿するつもりです)。

 ネタはだいぶ古いのですが、「少しも寒くないわ」という言い回しで、ピンとくる人がいるかもしれません。某・ありのままの姿を見せた雪の女王の映画から題材をとっています。

 ちなみにこの映画、米国版と日本版とでは、タイトルが異なります。もちろん、日本市場に受け入れられやすくなることを目的として、このような変更が加えられたのだとは思います。しかし「翻訳」というプロセスをたどる以上、どうしても本来の作品が有していたみずみずしさが失われてしまう――かもしれません。

 しかし翻訳されなければ、海外の価値あるコンテンツが日本に流れ込んでくることもないでしょう。原著にあたることは大事ですが、大枠をつかみ取るだけならば、翻訳されたものでも十分だと思います。

 とはいうものの、書き手の立場では、また別の問題が浮上してくるように私は考えます。書き手がどのような創作プロセスを取っているかは分かりませんが、大半の人は「まずイメージを頭の中で作って、しかる後にイメージを言葉に置換する」というプロセスを採用しているのではないか、と思料します。

 となると、これもまた一種の翻訳行為であると言えるのではないでしょうか?

 頭の中にあるイメージを、文章、音楽、描画という表現手段を用いて表現することが、一般的な創作のあり方だと考えられます。イメージ(アイデア)が先に存在し、そのあとに表現が検討されるわけであり、この過程が逆転することはないでしょう。

 しかしイメージを言語化する段階にあたって、私たちはどうしても言語の枠内から抜け出せなくなります。人物がしなやかに体を動かしている様子をイメージした上で、「その人はダンスをしていた」という文章を作ったとしましょう。この瞬間、本来のイメージが持っていたはずの繊細さは失われ、ただ「ダンスをしていた」という、最大公約数的な動作のみが言語として凝結します。作者は持てる資源をすべて活かして、自分のイメージを伝達しようとするでしょう。しかしどれほどすぐれた表現であっても、それは作者の頭の中で展開されたイメージのみずみずしさには及びません。

 しかし、仮に作者が自らのイメージを寸分たがわず表現できたとして、その表現が着実に読者に伝わるかは分かりません。「ドリブル」という言葉から、いったい何が連想されるでしょうか。足をつかって、サッカーボールを器用に前へと運ぶ動作のことを連想する人もいるでしょう。その一方で、手首のスナップをいかしてバスケットボールを弾ませる動作のことを連想する人もいるかもしれません。

 そしてサッカーのドリブルを連想した人どうしの間でも、喚起された連想のディテールは異なるわけです。イメージは翻訳の段階で変容し、また解釈の段階で更に変容するわけです。

 しかしながら、はたしてこの変容は恐れられるべき何かなのでしょうか? ――私はそのようには考えません。むしろわれわれは媒介用の言葉を主軸として、自らのイメージを広げる権利を持っているわけです。誰かの言葉によって想像力が喚起され、その喚起された想像力が言葉によって表現され、またその言葉が誰かの想像力を喚起する――このゆるやかな連関の中で私たちは語り、また語られるわけです。そしてこの黎明の中にいることこそ、本当の意味での創造なのではないでしょうか。
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