2016年11月27日 (日) 16:55
【注意!】
本報告は、平成28年11月3日に同名で投稿した作品と内容を一にしています。なお、当該作品については本日付で削除いたしました。「作品として投稿するにはあまりにもばかげている」乃至は「活動報告の記事で充分」と考え直したためです。あらかじめご了承ください。
ドイツを代表する詩人であるホフマンスタール(Hugo von Hofmannsthal)が、ウィーン大学に大学教授資格申請論文「詩人ヴィクトル・ユーゴ―の発展についての研究」を提出したのは、1901年のことでした。
この論文は初めこそ受理されたものの、「ロマン語文学研究について、ホフマンスタールがどのような意見を持っているのか判然としない」ということを理由に、ウィーン大学側はかれに詳しい説明を求めます。ところがホフマンスタールは説明することを欲せず、あろうことか、自らが提出した論文を撤回してしまいます。
どうしてホフマンスタールは、論文を撤回するという決断にいたったのでしょうか。その答えを探る手がかりとして、ホフマンスタールが1901年に執筆し、翌年に発表した『チャンドス卿の手紙(Ein Brief)』を紐解いてみましょう。
「これは、フィリップ・チャンドス卿、すなわちバス伯爵の弟子(おとご)の公子が、フランシス・ベイコン、のちのヴェルラム卿、セント・アルバンス子爵にあてて、文学の営みに一切かかわりを断つことを、この友人に釈明するためにしたためた手紙である」――『チャンドス卿の手紙』は、このような書き出しにより始まっています。書き出しのメタ的な語り方からも分かるとおり、「フランシス・ベイコンを友人に持ち、文学の才能に秀でた“チャンドス卿”」なる架空の人物を造り上げた上で、ホフマンスタールは自らの心境を吐露しているわけです。
『チャンドス卿の手紙』(以下、『手紙』と略記します)の内容へと踏みこんでみましょう。『手紙』はまず、自らの音信不通を心配して手紙をよこしてくれたフランシス・ベイコンへの感謝の言葉から始まっています。ベイコンのねぎらいに感謝しつつも、しかしチャンドス卿は、ベイコンが心配している当のもの――すなわち、チャンドス卿の有するたぐいまれなる文学の才能――について、もうその才能をかれが発揮する機会は永遠に訪れないばかりか、どうしてそのような事態に陥ったのか、自分でもうまく説明できない「病」にかかっている、ということを、続けざまに告白します。それというのも、チャンドス卿の罹患している「病」とは、かれがこれまで言語に対して抱いていたはずの「親しみの感情」を根こそぎ奪い去ってしまうような、一種の心理的、ないしは形而上学的な「病」であるためです。抽象的な言葉を用いることに不便を感じとったチャンドス卿は、次第にその周辺の言葉を用いることにさえも不自由を感じるようになり、しまいには言葉の一切が「ぼくにはおよそ証明不可能な、穴だらけの真っ赤な嘘」と思えてしまうような、深刻な状態に陥ってしまうのです。
チャンドス卿の問題の奇抜さは、「感性が鋭敏になりすぎたあまりに、チャンドス卿は自らの感性を凝縮する手段としての“言葉”に、道具としての不便さを感じるようになってしまった」というところにあります。逆説的な響きを帯びていますが、「およそ名もなければ、名ざすにも値しないようなもの」が、「崇高な感動的な特徴を帯び」てチャンドス卿の前に現れ、「その特徴を記述するには、言葉という言葉はすべて貧しすぎる」という感情に見舞われてしまうがために、チャンドス卿は自らの感情を言葉に置き換えることができなくなってしまうわけです。結局チャンドス卿は、一切の文学活動から身を引くことを宣言し、この手紙を締めくくります。
1901年時点におけるホフマンスタールもまた、チャンドス卿と同じ感慨を抱いていたことは明らかでしょう。事実、ホフマンスタールが詩人として活動した期間はわずかです。1906年以降のホフマンスタールは、もっぱらおのれの活躍の舞台を、詩から劇へと移しています。
ところで、ホフマンスタールが直面したこのような状況、つまり「詩人が言葉に裏切られる」とでもいうような状況とは、いったいどのようなものなのでしょうか。チャンドス卿は言葉を手繰(たぐ)る能力を失ってしまいましたが、それがかれの才能の干からびて死んでしまったことを意味しないのは、前述のとおりです。むしろ自らの感性が鋭敏になりすぎたあまり、チャンドス卿は言語の天蓋を突き破って、真空へと飛び出してしまったと言えるかもしれません。ところで、そのようなチャンドス卿を待ち受けているのもまた、「死」と見なすことはできないのでしょうか。枯れ果てた文才ゆえに、文学場の重力に押しつぶされて死ぬのと、言語の及ばない宇宙に解き放たれ、窒息して死ぬこととの間に、いったいどのような違いがあるというのでしょうか。
しかし、両者はまったくもって似て非なるものです。上記のような疑念が私たちの脳裏に入りこむとき、私たちは「詩才の死」と「詩性の死」とを混同してしまっています。小舟から投げ出され、三日三晩ひとりで海をさまよっていた黒人のピップ少年は狂ってしまいました。しかしそれは、かれが人の狂気から天の正気へと羽ばたいただけのことにすぎません。チャンドス卿もまた、人の狂気、もしくは天の正気とでも呼べるような新しい境地へと踏みこんだだけなのです。
ただしチャンドス卿は、その新しい境地から見えた光景の意味を、最後まで理解することができませんでした。チャンドス卿は、自らの生そのものがひとつの詩として機能していることに、最後まで気づけなかったのです。
すべての芸術作品は、それが作品である以上、タイトルを有する宿命を背負います。タイトルは、作者の精神世界と鑑賞者とをつなぐ、橋のような役割を果たしています。ところで本来の詩性、つまりもっと幅広い意味での詩性は、本来このような芸術作品の宿命からは完全に自由な領域にいるはずです。チャンドス卿がみずからの境地について困惑し続けたのも、ひとえに本来的には自由であるはずの詩性を、何とかして作品という枠組みの中に押しやろうとした結果です。
20世紀を代表する哲学者の一人、H・ベルクソンは、詩について「詩は、詩人の抱いた一度きりの感情を、言葉の影を踏ませて鑑賞者に喚起するものである」と語っています。しかし、言葉はしょせん言葉にすぎず、一般的な機能とありふれた側面しか示しえません(ベルクソンは、主著の一つ『物質と記憶』の冒頭で、言語について「実践的には有用な記号」であるものの、「内的な生を覆い隠している」と指摘しています)。感情が本来持っていたはずの繊細な機微は、言葉として表出する過程で捨象されてしまうのです。
本来の詩性は、詩人の内側をすき間なく満たしているものですが、これが詩として発露する段階にいたると、内側にあったはずの詩性の豊かさは、完璧には表現されえなくなります。これをジレンマと呼ばずして、いったい何と表現すればいいのでしょうか。しかし、このジレンマを解消する方法を、詩人はみずからの内に秘めています。それは、詩人本人が、自らの詩性に則った生を歩むことです。
そもそも、言葉を用いて詩性をすべて表現しきれないのは、言葉が都合よくまとめられた断片的な概念である一方、詩性がかき集められた断片ではなく、分ちがたいものであるためです。詩は、二度と目にすることができないもの、決して戻ってこない心の状態を描くものであり、再構成されるものではありません(つまり、詩が表現する心の状態、すなわち「感情」が、それ自体に根拠を持たないために、感情はその瞬間にしか味わうことができず、後になって思い出した感情というものは、その実のところ、「思い出したつもりになって、現在味わっている別の感情」にすぎない、ということです)。
ところで、こうした詩の在り方こそ、私たちの生の在り方と同一的ではないでしょうか。「再構成され得ない。ただ見ることができるだけ」の生の在り方は、本質的に詩性と分ちがたく結びついているものなのです。
前述のとおり、1906年以降、ホフマンスタールは詩から離れ、劇・文芸へと移行してしまいました。しかしそれは、かれの詩性が枯れてしまったことを意味してはいません。むしろかれ自身は、古典的に言えば「良く生きる」を実践できていたのではないでしょうか。生が自己充足的であるのと同様に、かれの詩性もまたかれに寄り添うようになったのですから。
【参考文献】
ホフマンスタール(檜山哲彦訳)(1991)『チャンドス卿の手紙』、岩波文庫
H・ベルクソン(熊野純彦訳)(2015)『物質と記憶』、岩波文庫
H・ベルクソン(原章二訳)(2016)『笑い』、H・ベルクソン/S・フロイト『笑い/不気味なもの 付:ジリボン「不気味な笑い」』、平凡社ライブラリー所収