【メモ】(近代文学考察②)近代的自我という虚構:理性主義の限界
2019年06月05日 (水) 05:34
【メモ】(近代文学考察①)ヨーロッパ啓蒙主義とリベラリズム:カソリックからの超克』の続きとなります。


 近代の種はルネサンスであり、啓蒙主義によって花開く。
 近代とは啓蒙主義の事である。
 啓蒙主義とは理性主義であります。

 近代理性主義においては、あらゆる人々には理性が備わっており、よってあらゆる人々は啓発可能であると考えます。これが啓蒙主義です。
 蒙昧なる人々を啓発することによって、良識を持たせることが可能であるなら、人々は平等であるべきだ、、、というのが、現代にいたる平等主義および博愛主義の根拠です。

 理性主義において、
 精神世界(理性)と外世界(実存世界)は分離され、
 つまり、
 精神(思考)と身体(実存感覚)は分離され、
 個と集団は分離され、
 個人的価値と共同体的価値が分離され、
 ここにおいて、自由意志が現れ、リベラリズムと繋がります。
 すなわち『政治的に束縛されてない状態(リベラル:自由な状態)』を、人間のあるべき理想とする、ギリシャ自然法の価値観と合流します。

 ここにおいて、いわゆる近代的自我とは、『共同体の価値に拠らない、個に拠る、理性的な自我』を意味します(のちに個人主義へ発展)
 
 近代文学において、自由意志のドラマが描かれている。
 それも、庶民(大衆)の姿として描いている。
 これは、無知蒙昧である庶民が、啓発されてゆく過程そのものが、啓蒙主義のドラマだからです。
 一一つまり近代文学は大衆を対象としたモノとして始まった
 ただし、
 実際には、近代のヨーロッパ大衆が、理性的自我を持ち得ていたのかといえば、ノーです。
 それは物語だけの話。
 もし、近代ヨーロッパにおいて、大衆の多くが理性的自我を持ち得ていたなら、フランス革命は成功したでしょう。
 フランス革命の失敗によって、近代的自我を含めた理性至上主義は、現実に即したものではない、と批判されます。
 人間の理性は不完全であり、故に、歴史と経験を重視すべきだ、という思想が唱えられました。これが『保守主義』です。

 オルテガは『大衆の反逆』において、大衆の『身勝手さ』を指摘しています。
 この身勝手さ、というのは、非理性的、と言い換えていいと思います。
 オルテガは大衆批判をしましたが、そこ止まりでした。吉本隆明は、より進んで大衆を肯定しました。
 
 現代の脳科学において、精神を身体性の一種だと考える見方があります。
 
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