2021年05月20日 (木) 22:33
54歳だそうです。
ベルセルクは第一巻が発刊されたぐらいから読み始めました。
当時の画力はそこまで上手いという感じではなかったのですが、どんどん上達していって、海外でも高い評価を得るような作家に変貌していったのを覚えています。
1巻目が発売された当時は、ヘルレイザーというB級SFスプラッターが元ネタ(の一部)だという意味で、仲間内では評判でした。そういうキワモノ作品という認識でした。
それが黄金時代編で、一気に本格的な物語になっていく。
主人公の人格形成における過程、主人公を取り巻く群集劇における悲喜こもごも、奇怪なストーリーの背景がそこで描かれたわけです。
黄金時代編において、私たちの誰もが、熱狂しながら何度も作品を貪り読んだものでした。
ベルセルクにおける黄金時代編は、日本のダークファンタジーにおける圧倒的な金字塔であり、ダークファンタジーを描く作家たちの、標となる作品だと思う。
ただ黄金時代編が終わって以後は、ダークファンタジーというには軽いノリがどこかにあって、そうこうしている内になんとなく読むことから遠くなっていった。
その意味では教訓的でもあると思う。
ベルセルクは未完のまま終わることになりますが、私自身は長編における未完というものを、不完全なモノとはあまり考えない。
というのは、大抵の場合、「書けるけど書かない」ではなく、「もう書けない」という状態だと思うからです。
そこにおいて「無理やり完結させることはできるのに、それをやらないのは何故なのか?」と考えた時、「無理やり終わらせるよりも、その方が、作品としての品質をまだ維持できるからだろう」と私は考えます。
モーツァルトの未完成交響曲。
あのレクイエムは未完成であり、第1曲から第3曲までしか作られず、モーツァルトの弟子がその後を完成させた。
しかし、それでも素晴らしい。
あのレクイエムを未完成だからダメだという人はいないだろう。
未完成だとしても美しいものは美しいのだ。
たとえば美しい指先をみて美人をイメージするも、実際の現物をみてがっかりすることはある。その場合、美しい指先だけで満足していれば、美しい全体をイメージしていたところで止まる。
不完全な完成品と、完全な未完成を比べた時、どちらが良いのか?
少なくとも未完成でありながらも、そこまで完璧であるならば、後続の人がそれを補う可能性はある。
「長編における未完結というのもまた、一つの終わり方なのだ」私がそう考えるのは、つまり、このような理由からです。
ベルセルク以外にも描きたいモノがあるが、ベルセルクが終わるまで手を出せない、みたいな内容をインタビュー記事で読んだことがあります。
その意味でも早世であると思う。
ご冥福をお祈りします。