2021年11月15日 (月) 21:22
本能として、肉体は生きようとする。
もともと理性とはそれに付随した要素にすぎない。
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マンガ『アリオン』において、獅子王がアリオンの喉元に剣を突きつけ、「死にたければ一歩踏み出せばよい」みたいな事を言う。アリオンは身動きができない。そして獅子王が「それすらもままならないだろう?」みたいな事をいい放つシーンがある。
子供の頃、そのシーンにハッとさせられた記憶がある。意味はわからない。でも大切な何かを言っている気がしたからだ。
子供の頃の私は理性や理想の信奉者だった。
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健全な精神は健全な肉体に宿る。
この言葉は2つの解釈ができる。
1つは文字通りに、健全な肉体であれば健全な精神に成るという解釈。
もう一つは、健全な精神があるからこそ、健全な肉体に育つという解釈。
現代人の場合、後者の考え方が通常だろう。
子供の頃の私もそう考えていた。
しかし、歳をとるにつれてそれは違うんじゃないのかと考えるようになった。
極端にいえば、麻薬中毒者やアルコール中毒者などにおいて、かれらの精神は肉体の衝動に引っ張られて、大きな苦しみの中に置かれている。
これが健康な肉体であるならば、すくなくともそうした状況に精神がおかれずに、非常に穏やかな気持ちでいられるからだ。
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現代思想において、理性のほうが本能よりも上位にあるという価値観がどこかにある。
もちろん現代思想においても、動物化とか身体性という表現において、人間の根源性を語る場合もあるが、それでもやはり肉体をどこか見下している。
ニーチェのように超絶的な理性を信奉している人がいる。そうした人は肉体を憎悪するケースが多い。
行き過ぎたフェミニズムであるミサンドリや、行き過ぎた菜食主義であるヴィーガンは、実質的には肉体への憎悪に等しい。
私はこれを、奇形化した理性と呼んでいる。
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宗教というものの神性さにおいて、もっといえば、シャーマニズムにおいては、人は全身の肉体を通じて世界を感じており、思考というのはその出力にすぎないみたいな発想がある。
身体で感じたことの言語的な表現が思考であり理性であって、その理性の根幹にある秩序性は、身体が感じている世界に依存しているのは明かではないか?
思考している土台には、かならず世界と身体があるのだから。
はじめに理性があるのではない。それは傲慢ではないか?