メモ(AIの小説について)
2016年03月22日 (火) 10:39
昨日23時半、AIが小説を書いたという特集について。

途中聞こえた「人間はそれまで読んだテキストと同じレベルくらいのモノしか書けない」(うろ覚え)という感じの発言に納得。
これは読書経験が表現するときに寄与することの示唆に通ずる。
よって熟読と書きの実践の繰り返しにこそ、愚直で王道たる小説学習の道があるように感じる。

4作品のうち1つが1次審査を突破したというAIも、現状では、「8割方」人間の手が加わっている段階らしい。
関係者の松原仁教授(人工知能学会会長)によると、「人間が人間らしい小説を、コンピューターはコンピューターらしい小説を書く。それなら共存できるかも」みたいな話が興味深かった。

出来ないというのは簡単。理想を据えてあがくのが人の可能性。コンピューターには無理だと言った時、それは文字による限界も示唆する気がして、できればコンピューターには頑張ってほしい。

文才などと言う、よく分からない才能はどこまで話作りに関与しているのか。曖昧なそれに対して幻想を抱いている人が多すぎる。現状、9割がたは誰でもできる技術という印象。もっとかもしれない。残りの1割のいくらかを作家性、すなわち感性などの文才が。残りを「文学」が占めているように思う。

→だから上手いと思う人の作品を分析する。距離感の把握が必要。たとえば川端は感性で物事を捉え、それを技術で書き、書いた物を更に感性で表す方法をとった(という私見)。それが共起関係などに関係する「新感覚」を生み出したように感じる。
(この方法は使える。技術を技術以上に昇華するやり方。彼ですら投稿後何年も経ってから書き直した。常に言葉との間合いを見極めようとした。その姿勢が大事だ)

AIもテキストを読みこんでいる最中らしい。将棋や囲碁もこれまでの対局記録を読み込んで、時にはトッププロですら驚く一手を放つようになった。AIを利用して書く人も……実際ストーリーメーカーなどでプロットを作る人は今だっているだろう。最終的に人の心を打つのは人であってほしい。その脈動がAIでも実行可能な技術か、そうではないのか。

自分に足りないのは? 書いていていつも思うのは激しい脈動だ。熱くさせて引きずり込む力強さだ。完璧なAIの作ったものを「引き算物」として使い、余ったものが自分の求める物とするのはどうか。それだ。それがいい。

表層程度の感動は、あるいは感性を動かすことは技術でできる。だから軽いエンターテイメントはAIに脅かされる危険が出てくる。引き算されて残った物がその作品の価値ならば、自分たちの感動はただの幻覚作用だったのか、それとも言葉がとらえようとする、言葉では説明しきれない何かがもたらした物なのか。
(AIにできるということは、人間の誰もが出来うるということ。それは作家という一個人の、アイデンティティと思った部分をはぎとっていく。生命の危機だ)
ゾクゾクする。
きっと生きている気がする。確かな自分を探せたという実感と、そこからさらに他者に拡散して自由になれる感覚が知りたい。見極めたい。

同時にこれは、将来的に、曖昧だったプロとアマの境界に一定の線引きがされる可能性すらある?
線が引かれるなら踏み越えてやる踏み越えてやる。

そういえば、星新一の「はい」という作品。今年の五月には注目される気がする。
あれもAIによる話だが、始まりの舞台が2016年5月だからだ。
主人公は、自分と同じ年齢。
子どもの頃は分からなかった、「年を取ってからの安心感」が、今なら分かる気がする。
同時に、すべてをAIに委ねる生活を否定しながらも、指標や確実性のない人生を不安に思い、AIに頼りたい気持ちも、確かに自分にはある。

この相反する気持ちを生じさせて、作品の価値を深めたのがすごいところに思える。

AIが小説を書くこととも同じ。
全権委任は否定しても、現状正解のない自作品の成功の道筋(こう書くと、書き手というのは全員、傲慢なものだと分かる)に対して、AIに頼りたい気持ちは生じると思える。
コメント全4件
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叶エイジャ
2016年03月26日 02:04
矢岳さん
コメントありがとうございます!

的確に核心を突かれた気分です。
将棋や囲碁だって、対人で対局するからこそ、真に面白い。
小説だって読み手が人間である以上、書き手が人間でないと深く感動できる作品は生まれないと思います。。
それは矢岳さんのおっしゃられた通り、人には「書く理由」が根底になるからだと思います。

技術技術言いましたが、ここで言う技術は「筆者の熱意を読み手に、なるべくイコールで伝えようとする工夫」としますね。
同時にそれは、学習次第で誰でもできるもの、とします。

仮にAIが発達して、誰でも実行可能技術がすべてこなせるようになったのならば、書き手を書き手たらしめている何かが、朧ながら見えてくるのでは、と思います。
「AIが小説を書けるようになることで、小説家はいなくなる」みたいな考えを抱いた方もおられるようですが、研究者自体「人の創作の過程や仕組みを知ることで、人間はより賢くなる」というスタンスのようです。

もし、創作の過程を解き明かす過程で、個々人の持つ説明不可の領域が出てくるのなら、それが文才と呼ばれるモノだと言ってもいいのかなと、思います。(とても変な妄想です)

あるいは、書く能力や技術はどこまでが小説家と呼ばれる人にとって特権的(?)なのかとか、
野球の才能のあるなしは分かりやすいかもしれないけど、文才のあるなしは何を基準に? とか、
いっそどうでもいいとも言えそうな疑問ですが、答えの出ない疑問に答えが出そうな面白さも感じています。

絵画も、音楽も似たようにAIでの研究がすでに行われているそうですが、いずれにしろ、AIの発展で分かるのは、人というものの奥深さだと思います。

ふと思ったのですが、AIが発展するにつれ、書く人自体はむしろ増えると思いました。
「書く理由」「書いて表現したい衝動・脈動」があっても、技術でつまづいて諦めていた人もまた、いるのではないでしょうか。
そういう人が発達したAIを駆使することで、マンガの原作者と漫画家のような関係になる。そういう未来もまた、可能性としてはあるかもしれません。
叶エイジャ
2016年03月24日 16:51
詩瑜 様
コメントありがとうございます。

エンターテイメントなどに代表される「表面的な面白さ」。
その背景に広がる、ストーリーの面白さとは別の「書き手の見識や洞察力」。

後者は、内容の「深さ」につながります。
考えて、感性はおそらく両方にまたがっているのでは、と思いました。

現在の私の結論では、「エンターテイメント性の強い作品で、短編に限り、AIは今後良い作品を書くかも。そうした作品内では感性を上手く扱える可能性も。でも、深い感動は生まれないだろう」です。
退会済
2016年03月22日 21:31
そのニュースは初めて知りました。
で、気になって読んでみました。

感想としては、「案外、巧いな」といったところでしょうか。
でも、それだけですね。
小説って、なぜ書くのでしょう? 本来は合評会のためでもなければ、何か賞を獲るために書くのでもない。
「書かずにいられないから書く」はずです。
理由もないままに書かれた小説って、単なる暇つぶしにしかならないですよ。
文学賞を獲って、お偉い先生になんかなりたいと思わない。ただ、駅のキヨスクで売られ、暇つぶしに読み捨てられる小説家にはなりたくない。と言った作家がいましたけど。
AIがどれほど発達しても、「書く理由」までは生まれないと思います。

絵画も、音楽も同じですよね。
自分の感じているものを表現しようとする熱意に、人は感動して心を打たれる。
ウマヘタなんていう低次元なものをいくら突き詰めようと、人は感動しません。
小説なら、文章や展開は巧くて当たり前。技術をないがしろにしていいわけではありませんが、大事なことはもっと先にあるような気がします。
ただ、これによってAIでも書けてしまう駄作が淘汰されるとしたら、それは喜ばしいことかもしれません。なんせ「読み手より書き手が多い」と揶揄されるご時世ですから。
退会済
2016年03月22日 15:22
結局は感性が共感されるか否かだと思うんだけど、その点で言えばAIの方が有利じゃないかな。

エッセイとして投稿すれば良かったのに。