戦国時代の文化についてあれこれ「御屋形様」「諱」
2017年02月19日 (日) 00:01
戦国時代について小説を書いていると、やはり色々ご意見いただく事があります。
更に、偏に「戦国時代が好き」と言っても程度の差が大きく、この時代に起きた戦、事件を知っているだけの人、この時代に文化や産業にも精通している人など、その内容も様々です。

ですので、このシリーズ(にするつもりです)は感想などでご指摘の多かった事項について、作者の考えや解釈を書いていこうと思っています。
勿論、読者様の考え、解釈との差異は生じると思いますし、納得できない事もあるでしょう。
なので、あくまで「織田家の長男に生まれました」の歴史だと、そういう風になっているんだ、とご理解ください。


「御屋形様」について

多くの方からご指摘いただきました通り、「御屋形様」という呼称は、本来幕府から「屋形号」を賜った家にのみ許されるものです。
ですので、「未来の英雄との邂逅」内の信広のセリフ「主君を御屋形様と呼びたい気持ちはわかるが~」は、弾正忠家がこの時点では屋形号を賜っていない以上、不適切です。
しかし、作者の調べた中で「御屋形様」は「武家の棟梁(武士の家の棟梁という意味で)を差す場合にも使える」ようです。
勿論、制度上では不可能です。しかしこの時代、幕府の権威が地に墜ちていた事もあって、役職を自称する武士(〇〇守みたいなやつ)が沢山いました。
当然、制度上はこれらも本来の呼び方ではない筈ですが、資料に残っているため、「織田上総介信長」にツッコミを入れる人は居ない訳ですね。
となると、「制度上は不可能だけど、地方にはもう幕府の威光が及ばないから、自称する武士が居た」としてもおかしくないと解釈できます。

太鼓持ち武将「おやかたさまー、おやかたさまー」
主君「おいおい、儂は幕府から屋形号を賜っていないから御屋形様ではないぞ(にやにや)」
太鼓持ち武将「てへへ、すいやせん、つい」
主君「まったく其方は無知よの(愛い奴め)」

みたいな会話があってもおかしな話ではないですよね。
ついでに信長の上総介も、元々は今川家が代々上総介を称していたのに対抗して、「介」の上役である「守」を自称して上総守としていましたが、「上総は親王任国ですから守は存在しませんよ」と注意されて上総介に直した、という説があるくらいですから、この時代の幕府由来の制度は形骸化していると言っても過言ではないでしょう。
東国武士に多く見られる、左内、数馬なんかは自称どころかニセ官名ですしね。

流石に公の場で、信広を家臣が「御屋形様」と呼ぶような事はあってはならないと思いますが。


「諱」について

「松平信孝の見た安祥城」において、信広が広忠を広忠と呼んだ事を非礼として表現しました。この点について、これが非礼だと伝わらない可能性がある、とご指摘を受けましたので解説させていただきます。
この時代の武将の名乗りは複雑怪奇なので、シンプルにいきますが、
「織田五郎三郎信広」と名乗る場合、「織田」が苗字あるいは家名。「五郎三郎」が通称あるいは輩行名。「信広」が諱となります。名乗りによっては、通称が官職に置き換わったり、官職と通称が同居していたり、氏という家名より更に大きな括りや、姓(かばね)という朝廷との関係を表すものが入る場合もあります。
「織田(家名)上総介(官職)三郎(通称)平(氏)朝臣(姓)信長(諱」フルネームの信長(1560年版)です。
まぁ、今回は諱の話。
忌み名とも読み、字面から予想できる通り、「呼ぶこと忌み嫌う名前」という意味です。親や上司が諱を呼ぶことは普通にありますが、同輩、ましてや格下の人間が呼ぶ事は大変失礼にあたります。
なので、特に目上でも血縁でもない信広が広忠を諱で呼んだ時、広忠の家臣なら憤って当然ですが、信孝はそれをスルーする事により、「自分はもう広忠の家臣じゃありません」と示した訳ですね。
ちなみに忠政さんと信広が互いを諱で呼び合っていますが、これは親しみの表れだと思ってください。
諱は実名とも言い、その人の人格を現す名前、という意味もありました。
つまり、ここで信広と忠政さんが諱で呼び合っているのは、「渾名」でお互いを呼び合っているような感じでしょうか。
「マサ」「ヒロ」と呼び合っているようなものだと思ってください。
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