2017年03月30日 (木) 20:28
感想などで多くいただいた「石高」と「兵員数」に関する解説を。
「安城包囲網 参」の後書きにも同じものがあります。
石高から動員兵数を計算する方法はありますが、これは勘違いしてはいけないのが、絶対的なものではなく、あくまでそれぞれの組織に関しての動員数でしかないという事を覚えておいてください。
豊臣秀吉は家臣達に、「百石につき五人」の軍役を課しました。では百石の領地を持つ武将は兵を五人しか出せないか? と言ったらそんな事はありません。これはあくまで、有事の際に効率良く兵を集めるためのシステムに過ぎません。これを定めておくことで、混乱する事無く、素早い動員が可能になります。
また、このシステムがあれば、誰と誰に出陣を命じれば、どれだけの兵が用意できるかの計算ができますので、戦の準備がしやすくなります。
今川義元の寄り親寄り子制度、北条氏康の「七貫の土地に兵一人」もこれと同じような制度です。今川、北条が安定して強かったのは、こうしてシステマチックされた動員システムがあったからでしょう。そんな両家も、局地戦では割と負けています。これは、他の家、組織はこのような効率化されたシステムを持っていなかったため、戦となれば、とりあえず領地から兵を集めて来るだけだったため、彼らの予想を超えて兵が集まる事もあったためです(武将の優劣などもあったでしょうが)。
石高を基に計算する方法で算出された兵員数と、その土地に存在する戦闘可能な人口の数は=ではないため、計算以上の兵力を集める事は十分に可能です。
そもそも、毎回限界まで動員させてしまっては、連続した軍事行動がとれなくなり、逆に効率が落ちてしまうでしょう。家臣の離反や領民の反乱も起きてしまうかもしれません。
なので、この手の計算式でわかる数は、その土地の限界動員数より相当低く設定されている事が多いです。
では、その土地における限界動員数はどのように知れば良いのでしょう?
少なくとも、作者の持つ資料の中に、これを記したものはありませんし、はっきりとした計算方法も存在しません。しかし、推測する事はできます。
基になるのは一向一揆です。
彼らはどこからともなく人を連れて来て一揆に参加させる訳ではありません。基本は「その土地の一向宗門徒」を煽って一揆を起こさせるのです。つまり、一向一揆参加数=その土地の戦闘可能な一向宗門徒の数、と言えます。
わかりやすいのは加賀の一向一揆。国一つ分ですからね。計算の応用が効きます。この時の門徒兵は30万。眉唾や、盛られているという説もありますが、これを疑い出すと、軍役の計算式や各国の石高すら疑わなければならなくなるので、このままいきます。
三河と加賀を比べて、三河の戦闘可能な人員がこの30万を下回る事はないでしょう。ましてや、加賀はあくまで一向宗門徒限定です。で、三河の戦闘可能人員を30万と仮定し、これを東西と中央の三つに分けます。信広の領地も大雑把に、西三河の更に半分、とすると、30万の6分の1。つまり5万人です。
信広の領地には、5万人の戦闘可能人員が存在している計算になります。これなら、「無理をして1万を揃える」事はそう難しい事ではないとわかるのではないでしょうか。しかもおわかりとは思いますが、この数字、相当低く見積もっていますから、実際にもっと集まっても不思議ではありません。
作者も相当大雑把な計算をして、安城包囲網の各勢力の戦力を出しましたが、決して荒唐無稽な数字ではない事が、おわかりいただけたと思います。
領国が半分の半分でしたね
よって乗ってる最新の研究者によって3割ぐらいは上方修正されるので
20万×0.3×0.5×0.5×0.5 = 7500
ここに足軽には女性もいた説を採って3割程度足しておよそ1万程度にはなんとかなるかも