「織田家の長男に生まれました」更新しました!
2017年05月07日 (日) 22:21
感想の中にあった幾つかの質問について

「馬」
本編にも書いたと思いますが、この時代の日本の馬は、体格こそポニー級ですが、骨、足首、が強く、耐荷重量はかなりあったようです。しかも(日本人と同じく)胴長短足だったので、スピードは出ないもののスタミナに優れていたそうです。更に、道が舗装されていないとは言え、蹄鉄を必要としない程蹄が硬かったそうです。なので体格の良い馬を用意すれば、信広の騎乗にも耐える事ができたと思います。信広クラスの体格の武将も普通に騎乗しているようなので(斎藤義龍、藤堂高虎など)。
ちなみに、今川義元、北畠具房らが「太り過ぎて馬に乗れなかった」とされていますが、これは「馬が耐えられなかった」のではなく、文字通り「騎乗に至る事ができなかった」そうです。
それでも、この時代の騎武者は一戦ごとに馬を乗り潰すのを前提として、予備の馬を用意していたそうなので(半兵衛の逸話はそれを踏まえてのものなのかもしれません)、そういう意味もあって、「俺の体格に合った馬を探すのは大変なのに」という愚痴に至ったのでしょう。

「服部保長」
足利義晴に仕えている頃、上洛した清康に見初められて松平に仕官。森山崩れで清康が死去すると動向不明。家康の代に息子の正成が再任官、というのが定説なのは確かです。ただ、「動向不明」なので「重用されなくて表に出て無かっただけ」の可能性があるので、拙作ではそのようにさせていただきました。息子の「再任官」も「一度服部氏が松平を離れていた」のではなく、「親とは違う立場での雇用」という意味かもしれません。
この時代、情報収集や破壊工作、離間工作や情報操作などの、所謂「汚れ仕事」を行う者を忌避していた傾向がありますので、清康はその重要性に気付いて保長を取り立てたが、広忠はそれに気付かず重用しなかったのかもしれません。息子の正成が、武士として家康に仕えたのも父の不遇を見ていたからかも?
ちなみに、清康死後、伊賀の千賀地に戻ったとするのは、現在では誤りだとされているそうです。なので、千賀地城の伝承にある、「伊賀に戻った保長が千賀地を名乗り、その息子が家康に仕えた」という説は完全に否定されているそうです。

「歩き巫女」
主人公の提案から実用化までが早過ぎる、という意見をいただきました。
あくまで現時点では、他国での情報収集くらいにしか使われていません。
その情報収集も、そこで生活している平民が普通に知れるレベルのもの。歩き巫女の強みは「怪しまれずに国境を超えられる」事にあるので、それだけでも情報収集の精度と速度が格段に上がります。これから教育が進めば、「敵がいつ頃、どこを攻めようとしているか」「敵がどこと外交交渉を行っているか」「信玄は死んだのか?」などの重要機密を探る事ができるようになるでしょうが、現時点では「陣触れが出たので戦をするかもしれない」「米の買い占めが始まっているから戦をするかもしれない」「城を出た方向があっちだから、どこそこを攻めるかもしれない」くらいの報告しかしてない筈です。

今後も拙作をよろしくお願いいたします。
コメント
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