この恋を捧ぐ 旧四十四話「自覚」
2018年04月04日 (水) 08:09
 ラインハルトを襲撃した男が、セーラティア教会の大切な聖遺物を持ち出した盗人であると聞いたのは守衛と共にやってきたセーラティア教会の老司祭からだ。
 更にこの老司祭は男の師であり弓の管理者だったらしく、二人に深々と頭を下げた。
「本当に、本当に申し訳ない……私の、不手際でこのようなことに……」
 涙を浮かべ真摯に謝罪する彼を非難することは二人にはできなかった。
 ヘレーネやラインハルトにも謝罪したいようだったが、それは明日にしてもらうことにした。
 セーラティア教会の聖遺物を持ち出した彼は本来ならこのまま教会で審問を行うところだが、領主に手を出したとなればラインハルトの許可なく勝手に連れ出すことは出来ない。
 男は一先ず牢屋に閉じ込められることになったのだが、男は最後まで抵抗し、自分の罪を認めることはなかった。
「なぜ、何故私が罪人になるのだ! 私は、セーラティア様の使命を果たそうとしただけだ! 何故邪魔をする! バルタザール先生! あなたからもおっしゃってください! 私はただ信仰を、この世の安寧を守ろうとしただけなのだと!!」
 守衛たちに連れられて馬車に乗り込む直前まで男はそう言ってはばからなかった。
 だが、彼が先生と呼んだ老司祭はその言葉に応えず、無言で近づくと手を大きく振り上げその頬を打ち付けたのだ。
「いい加減にせい!」
 鋭い怒号は遠くで聞いていたエリカとシリウスさえ怯ませる迫力があった。
 男はそれまでの威勢を無くし呆然とした様子を見せるとあとは素直に馬車に乗り込み、老司祭もそれに続いた。
 小さくなる馬車の中で、二人がどんな会話をしたのか、あるいは会話なんてなかったのか、エリカとシリウスは知らないし、知る必要もない。



 二人がラインハルトたちがいる屋敷に戻ってくる頃には日はすっかり高くなっていた。
「はあ、やっと終わったな」
「だね……疲れた」
 一応、屋敷の中で仮眠は取らせてもらったもののあれだけでは疲れを完全に取りきることはできなかったのだ。
 二人を出迎えたラインハルトは相変わらず酷い顔をしていたが、昨夜に比べると幾分マシに見える。
「ヘレーネちゃんは?」
「……まだ目を覚まさない」
「そっか……」
 エリカはヘレーネの部屋に向かい、ラインハルトもそれに続こうとしたが、シリウスが待ったをかけた。
「なあ、ラインハルトさん。ちょっと話があるんだけど……」
「……なんだ?」
 エリカに目配せして先に行かせてからシリウスは口を開く。
「あんたさ……ヘレーネが眠ってる間に、何かしたか?」
 その言葉の意味を、ラインハルトは正確に読み取った。
「いいや、何も……」
「本当か? 嘘じゃないよな?」
「ああ……正直に言えば、しようと思っていた」
 ヘレーネを自分の、自分だけのものにしようと。
「だが、眠ってるヘレーネを見ていたら、何もできなくなってしまった」
 おかしな話だ。目の前には気が狂うほど欲しい女性がいて、手段も知っていたのに、それができないなんて。
「情けない話だが……口づけ一つ、できなかった」
 自嘲するように笑うラインハルトだが、シリウスはむしろ見直した。
 意識のない女性に無体を強いるようなら例えヘレーネが止めようとも歯の一本や二本へし折ってやろうと思っていたのだ。
「へえ……あんた、なんだかんだで、ヘレーネのこと本当に好きなんだな」
「……え?」
「え?」
 なぜか目を見開いて驚いた様子のラインハルトにシリウスは戸惑った。
「……好き? 俺が? ヘレーネを?」
「え、いや、いやいやいや、何言ってるんだよ、あんた」
 ラインハルトの言葉にシリウスは混乱する。まさか、あんなことをやかしておいてヘレーネのことを何とも思ってないとでも言うのか。
「待て、どうして俺がヘレーネのことを好きだと思ったんだ?」
「いやそんなのどう見たってそうだろ。じゃああんたはなんでヘレーネのことを監禁したり連れ戻そうとしたり必死に助けたりしたんだよ?」
「それは……ヘレーネのそばにいると安らぐし、ヘレーネが離れたらそれはどんな苦痛よりも耐えがたいと感じたからだし、ヘレーネさえいてくれれば他にはもう何もいらないと思ったからで」
「ほら好きじゃん! ヘレーネのこと好きじゃねぇか!」
 シリウスの言葉にラインハルトはひどくショックを受けたような顔をする。一方のシリウスは疲労感を覚えいていた。
「そうか……俺は、ヘレーネを好きだったのか」
「お前、好きだと思ってなかったのにあんなことしたのかよ」
「……好きだとは思ってなかったが結婚したいとは思っていた」
「どういうことだよ」
「添い遂げるならヘレーネとがいいとは思っていたが……まさかヘレーネのことが好きだったとは……」
「……へえ」
 シリウスはラインハルトのことを完璧超人だと思っていた。
 そのイメージは昨夜大きく崩されたわけだが、今はその時よりも強いダメージを受けている。これはもう修復が効かないだろう。
「……まあ、何もしてないならいいや。部屋借りていいか? 眠い……」
「ああ、好きなところを使ってくれ」
 シリウスは適当な客室を探し、ラインハルトは今度こそヘレーネの元に向かった。



 花があらかた片付けられたヘレーネの部屋に戻るとエリカが椅子でうつらうつらと舟を漕いでいた。
 彼の入室に治療済みのシャインはつんとすました様子で部屋から出ていく。意識が戻ってからずっとこの調子だ。非はこちらにあるのでラインハルトも咎めたりしない。
 エリカはラインハルトの気配で目を覚ましたのか、体を大きく伸ばして立ち上がる。
「ふぁ……もう話は終わった?」
「ああ」
「じゃあ、私も少し寝るね。何かあったら起こして」
「わかった」
 部屋から出て行こうとするエリカだったが、ドアノブに手をかけたままくるりと振り返った。
「その子の事、大事にしてね。兄さん」
 ラインハルトはその言葉に長い沈黙の後、小さく「ああ」と返す。
「お前には、いつもいつも世話をかけっぱなしだな」
「ふふ、兄さんは昔からいろいろできたからか、なんでも一人でこなそうとして、それでいて変なところで不器用だったものね。そういうところ、変わってない」
「そうだな……そのせいでお前と殺し合うことになった」
「ええ……でもね、私は兄さんの事、今でも嫌いじゃないわ。あんなことになったのは時代のせいよ」
「どうかな。俺とお前は共に親に裏切られ捨てられたのに、お前にはそれでも人を信じ愛せる強さがあった……俺にはそれがなかった」
 無意識に動く口をそのままに、今喋っているのは誰だろうかとラインハルトはぼんやりと思った。
 ここにいるのは確かに「ラインハルト」と「エリカ」なのに、会話をしているのは別の誰かなのだ。
 恐らくエリカも同じ状況なのだろう。
 けれど、どうしてだか不快感や恐怖はない。むしろ、過去のしがらみが清算されていくようだった。
「……ねえ、その子ってなんだか、不思議ね。本当に微かだけれど、私たちに力を分け与えてくれたあの方の気配がすることがあるわ」
「ああ……」
「もしかしたら、その子はあの方が兄さんを救う為に使わしてくださった天使かもね」
「さあな。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」
 どっちでもいいことだ。ヘレーネが傍にいてくれるならそれだけで十分なのだから。
「それじゃあ今度こそ、さようなら、兄さん」
「ああ、さようなら」
 その言葉を最後にエリカは部屋を出ていく。
 きっと、もうこんなことは起きないだろう。ラインハルトではないラインハルトが、そしてエリカではないエリカが表に出ることはなく、二人が会話することもない。
 それで、いいのだ。

 ラインハルトはさっきまでエリカが座っていた椅子に腰かけ、ヘレーネを見つめる。
 静かに寝息をたてる彼女の手を取り、祈るように握った。
「……ヘレーネ」
 その時、手がわずかに握り返された。
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