D線上の更新 現代社会こそファンタジー?
2017年03月09日 (木) 13:34
どうも、皆様の相楽でございます。

春ですね。ですがここんとこ、寒の戻りで超絶に寒いです。

ま、そんなことはおいといて。
物語世界に現実感がない、というのはラノベに限らずしばしば語られることだとは思います。実際の中世世界というのはそんなものではなかった、実際の雇用関係にそんな自由はなかった、とかその距離を往くのにその日数では不可能だ、その巨体は1G下では歩くことが出来ないとか、そもそも飛べないとか。
これらを総じてファンタジーだから、超技術だから異世界だからオッケーなの、としてきた。まだそれはいい。

現実世界ベースにしていても、生活感がない、生活費はどうしているのか、家族との関係性はどうなのか、というのを無視するというのは、やはり今までも突っ込まれてきた。

物語世界内でこれらすべてをどの位置にいる人間(洋の東西老若男女を問わず)からでも納得のゆく記述をするのは冗長というものだろうとは思う。
不可能といってもいい。個人を騙る(語る)ためにあえて、その世界を説明するというのは回りくどすぎる。だから『察してくれ』という不文律がどのような作品の前提にも横たわっている。

物語とは、象徴的である。

ここ最近そう思うようにはなっている。
主人公の一つの感情、一つの行動だけをピックアップして、そこにあたかもあるような世界観を糊塗してゆく張りぼてのような構造であったとしても、物語は成立する。

これは大昔から童話やアニメや漫画がとってきた手法だと思う。
メッセージの説明手法としての手段。伝えたいことを象徴的に描くことに特化する。このような流れが最近は一般化しているのかもしれません。
SNSなどに代表される共有意識やネット情報などによる共通意識がよりイメージを強固なものにしているようにも思います。

とも思えば、情報化が進む社会はより物語的に進んでゆくのではないか、とも思います。より象徴的に、よりメッセージ性が高い、本質を見極めなくとも生きながらえることのできる世界が生まれてゆくのではないかと。そこには幸福も苦痛も希望も絶望もある。しかし、その根になっている部分はもはや見ることが出来ないため、何処へ向かって伸びているのかがわからない。

なんだか私には現代社会が歪なファンタジー世界に見えることがあります。
自分もそこに片足突っ込んではいるんですが、もう片方の足くらいは自分の定めた点に重心を置いておきたいかなぁ、と。

たまーにそんなことも考えるんです。
コメント全4件
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相楽山椒
2017年03月14日 00:19
麓さん

なるほど、車に喩えるのはわかりやすいですね。
ミニバンばかりが売れる傾向にある、したがってメーカーはミニバンばかりを作る。これは読者と出版社の関係性ですね。

ではなぜミニバンばかりが売れるのか。

これはミニバンばかりが売っているから、乗られているから、という流行も一つありますが、多くの意見を聞く限り荷物が多く載る、乗り降りがしやすい、コンパクトで大容量低排気量、という、かなり合理的な側面が見えます。

この際にエンジン性能や、サスペンション機構を取りざたすることはまず皆無です。ボディの皮をはいだ核の部分なのに。

私はココかな、と思いますね。

物語のエンジン。物語の骨格、足回り。車という走ってなんぼの道具が最終的に語り継がれるのは、常に動力性能の部分です(パオとかフィガロのようなコンセプトカーは別です)下手すりゃ、エンジンだけで称賛される。

一昔前の車はイメージ広告しかなかったものだけど、利便性をアピールする昨今はそのあたりずいぶん変わったな、とおもいます。
これは『印象社会』とは相反しているんですが、現実に夢を見られなくなった反動が物語に侵食しているのかもしれませんねぇ。
麓 清
2017年03月13日 20:18
こればかりはどれが正解かなんていえませんからね。
突っ込み入れようと思えば、なんにでも入れてしまえますから。

とはいえ、それを端から端まで突っ込んでも物語は進まないですしね。

最近思うのは、車も似たようなもんだなと。
タイヤ4つつけてハンドル付ければ自動車になる。
それに何のガワを被せるかで、セダンになったり、クーペになったり、SUVになったり。

で、動けば何でもいい車から、やれ加速が、内装が、スタイルがと細分化していくわけですけど、表皮一枚めくればみんな同じみたいな。
けど、乗る人は好みも違えば、車に求める性能も違う。

ちょっとズレた話でしたけど、なぜ最近は合理的に作られたセダンが売れなくて、ミニバンばかり売れるのかという話が、この頃のネット小説の構図に似てるなと。
相楽山椒
2017年03月10日 00:57
呑竜さん

おそらく私の言いたいことを正確につかんでいただいたと解釈しています。
この、象徴化という作業は実は大昔にすでになされていたりはします。それが神話とか民話とか、伝統、慣習、ならわし、しきたりに準じた古い型の象徴で、戦後に一度崩壊した。

それらが民間(個人)から再構築されつつあるのが今なのかもしれないなと思います。正しいか正しくないかは最早解りません。ただ我々はそういうものの一端を意図せずとも担っている。

ただ、呑竜さんの武術における描写だけは「むむぅ……」とあの物語世界においては実は異質に感じていつも唸らされてます。この違いは何なのかの考察はまたいずれの形で考えたいとは思います。

ま、しかしですね。私は「嘘」から生まれるかもしれない「本当」が書きたいんだろうなと自己分析してます。
呑竜
2017年03月09日 23:25
お疲れ様です(=゜ω゜)ノ

たしかに現代社会は象徴化されてきてますね。
造られたメッセージ性のみもてはやされる。
記号化された、わかりやすいものこそ至高。

インターネットの功罪なんでしょうね|д゜)

意識してるわけではないですけど、書き方は、最近多少変わったかなという気はします。

ディティールを細かく書くのをやめました(元から細かくなかった説)。
細かく書けば書くほど、物語から遠くなる気がして。
私は物語を書いているのであって、リアルを書いているのではないんだって、強く思うようになりました。

この辺は、たぶん相楽さんとは対極にあるような思想だと思います
だからこそ刺激を受けるというか、興味深くて楽しいんですけども(*´ω`)