2018年12月03日 (月) 21:53
以前からの話ではあるものの、ハイファンタジーのランキング上位作品群のあまりの無個性さに困惑するばかり。
完全オリジナルなんてものは今更難しい話ではあるが、私にはあえて似たような話を書こうとしているように見える。
元々作家といえば変人の代名詞であり、人と違う自己表現の場が小説であったと思う。
文学だけではなく、ライトノベルにしたって、例えば『NHKにようこそ』や『ハイスクールD×D』、『それゆけ!宇宙戦艦ヤマモトヨーコ』といった作品達なんかは作者の個性と作品の個性が際立った作品であった。
『スレイヤーズ』『ゼロの使い魔』にいたっては新しいジャンルを確立した先駆的昨年であるし、ライトノベルというものを世に広く浸透させた代名詞的な作品であろう。
彼等は最初からプロとして商業として書いているわけだから、一概に彼等のような意識で書けばいいとは言えない。
だが、人と同じようなタイトルで、人と同じような話を書いて、それでこれが私の作品ですと言える人と、私とは絶対的に嗜好が合わないのは確実にいえることでもある。
人と同じであるというのは安心感があるのかもしれないが、あまりにつまらないとは思わないのだろうか。
私などは意図していなくても偶然誰かと同じ所作をしてしまっただけで二度とするまいと思ってしまうし、人と話してるときに「○○も同じこといってた」といわれたら何も話す気がなくなるような人間だ。
そんな人間からすると、ありきたりで使い回しの作品を通して何を伝えたいのだろう、という疑問ばかりが浮かんでくる。
それで苦しくないのか、何の罪悪感もわかないのか、と。
極端な話、そういう作者や作品は、私には「これはド○えもんではなくオリジナルキャラクター」と言い張るとこぞの人と同じことをしてるようにしか思えない。
しかも、それで商業化する作品もあるわけで、そんな人達は何の罪悪感もわかないのだろうか。
私には、はなはだ疑問が募るばかりである。
より正確に言うなら「日本の教育制度の賜物」かと。
一般的な日本人は、初等教育において「みんなと同じ事ができる様になりましょう。和を重んじ協調性を持ちましょう。ワガママは悪です」という感じの“教育”を受けたのではないでしょうか?
上記の逆、すなわち
「皆と同じ事をする必要は無い。長所短所は個人により違うので同じではないから、無理に足並みを揃える必要はない。集団より個人の能力を伸ばす事が重要である」
と言われるのは、それこそ個人競技のアスリートなどか“大学に入ってから”ではないか、と愚考します。
また【空気を読め】などを無言の圧力として「周囲と同じ」事を無意識に“強要”するのも、日本人くらいかな、と。それこそ【同調圧力】は世界でも類を見ない程に強いのではないでしょうか、日本人は。
少しズレますが「いじめ」の根元も、そこに有ると個人的には考えています。【自分(たち)と違うから攻撃の対象にする】という発想は、日本人でなくとも有るでしょうが、堂々と語り合う事なく“仲間外れ・排斥”したりする傾向が強いのは、最初に述べた「同じ事をできる」のが“良い事”だという【教育・刷り込み】があってこそ、ではないでしょうか。
それに【流行に群がる】のは、大人も子供も変わらない“特性”であって、「流行に左右されない」のは、しっかりと自分を持つ【強さ】が必要不可欠でしょう。流行に鈍感だったり「我が道を行く」タイプは、往々にして【仲間外れ】になりやすいのも事実かと。
まあ日本では「個性を伸ばす」事が二の次になっていた上、「個より全体」という風潮が昔から存在し重要であるとされて来た経緯が有ったが故に、『似た様な物ばかり』に見えるのでしょう。
「なろう(やラノベ)」にかぎらず、(作者としての)真の開拓者・先駆者(pioneer)は【ほんの一握り】であり、その後に「真似る者」が存在し、さらに多数の「読者」が居るのは否定しようが無いでしょうが、だからといって、類似(それ)を“悪”とは断じられないですね、私は。
埋もれる有象無象と、知られざる孤高、どちらを目指すかは「人それぞれ」でしょう。我が道を己が手で切り開かず、誰かに整備された道を歩むのは“楽”でしょうし。
それより、誰も見た事が無い風景を見たいから自分で歩み翔る人こそ、見習いたいし憧れますけどね、私は。