2015年06月14日 (日) 16:35
日本の弱みを見せないために、正確な報道が出来なかった。そのために国民の憤懣が講和条約で爆発したと私が見た資料では書かれています。ですが、私としてはそれ以前に、あそこまで無茶な講和条件をどうして日本の世論は叫んでしまったのか?と疑問を覚えます。やはり下関条約で甘い汁を覚えてしまったのが日本にとって良くなかったのではないか、と思えます。今ならともかく日露戦争の10年前、下関条約で北京も落としていないのに、賠償金も多額にもらえ、まだ日本軍が占領していない台湾も割譲してもらえたことから、露も似たような講和条件を受け入れてくれるという甘い期待につながっていたのではないか、と思えてならないのです。
どうせ賠償金でそれ以上に儲かるのですから、戦争はひたすら続けるべきという発想にもどうしてもなってしまいます。
樺太の割譲にしても北樺太まで割譲しては、アムール川の河口に日本の脅威が及びます。
あれやこれやを考えると領土と賠償金については史実通り、その代り日本軍が奉天会戦の勝利でハルピンの近くまで進撃しているので、史実と異なり、ハルピン以南の鉄道権益割譲と言う条件でこの世界の日露は講和することにしました。
太平洋戦争の末期、一撃和平論がありました。マリアナ沖なり、レイテ沖なり等で米国に一撃を加えることで日本に有利な講和を結ぼうという考えです。
これは実際には全くの幻でした。何故なら一撃を加えることでハルノートよりも遥かに有利な条件の講和条件を米国が受諾するという前提に成り立っており、更に大戦果を挙げれば上げるほど日本に有利な条件で米国は講和を希望するということになっていたからです。しかし、これには根本的な誤りがあります。例えば、マリアナ沖で奇跡の勝利を日本が挙げたとして、更に有利な条件で講和するために更なる一撃を加えるべきと言うのが暗黙の前提になっていたのです。これでは、永遠に一撃による和平は成立しないことになりかねませんが、誰も口にできなかったとか。
話をずらしてしまいました。感情論ではなく理性で外交は行わねばなりませんが、太平洋戦争終戦まで日本は明治維新以来、主に感情論で外交を行ってきたのかもしれません。