2020年06月25日 (木) 19:29
以前、日本のお城に関する番組で、『明智光秀が造った城』についてのがあったのですが!
もぉー光秀ベタ褒めですよ! ファック。
城の石垣の一部に寺の石材(墓石だとかお寺に使われていた石製のイロイロ)を使っていたのですが、それを『家臣達を大切にする優しい光秀が領民達の生活の安泰、安寧を願い石垣に使用した』と紹介されていたのに本当に、アホか。
光秀は横の紐帯(繋がり)を大切にする武将だった。
それに対し、信長は完全に上意下達、俺様第一主義のワンマン経営者、独善的、独裁的、と徹底的にこき下ろされてます。
確かに光秀の前半生は苦労の連続。極貧の流浪生活です。よって家族を、仲間を大切にするというにも頷けれますし、事実、光秀はそう言う人です。
それに対して番組では、信長は全く違った人生を歩んで来た事を無視しまくりです。父親が死んでから、尾張では家督争いが激化し、各種織田家(当時の尾張には信長以外の織田家一門がおり、力を有していた)との骨肉の内戦がありました。実の弟に二度も裏切られてます。家督を相続しても『信長(テメェー)の言う事なんて聞かねぇー』な輩がワンサカです。そうした連中を文字通り『実力で叩き潰して』ようやく信長は尾張を統一したのです。そうした経験から信長は絶対的な権力者を志向するようになりました。俺の命令が聞けないのか? そうしないと他者に喰われるのが戦国時代なんですよ!
実際にこの当時の戦国大名は、領国内では有力家臣と同格レベルか、一つ頭を出している、程度なんです。上杉謙信や武田信玄も足元を固めるのに苦労しています。
むしろ上意下達を徹底させた信長が異質、稀有な存在なのです。
番組では光秀の城は『家臣達を大事にし、彼らの上に立つのではなく横に並んだ性格を表した城』と紹介されていました。しかし現実の戦国時代ではそういう城は悉く落城しています。それも身内の離反、裏切りで。そうした社会構造だったがため、誰か当主が死ぬと家督争いが勃発し、下剋上は当たり前、社会は不安定化します。鎌倉も室町も、そうした構造、システムが原因で戦火が拡大したり起こりました。
逆に江戸時代になってからそうした揉め事を圧倒的な『力』で抑圧したからこそ、江戸・徳川の治世は二〇〇年以上もの太平な世を生み出せたのです。そうした太平の治世の大本の先祖が、信長の構築した『上意下達』なシステムにあるでしょう。実際に後の天下人、秀吉も家康も、そうした信長システムを継承しております。
……なのに番組ではそうした信長の傲慢さ・独善さを表す、として彼の城を酷評しまくりです。プンスカ!
で、城の石垣に使用された寺の石材なのですが、信長だって城の石垣に使用しています。それだけを見て、光秀の善性、善意を表すとは言えないのではないでしょうか? それに何年か前にあった、別の城の番組では、光秀の城に使われていた寺の石材を、『主君である信長同様、神仏に対する厳しい姿勢と合理性の象徴』として紹介されていましたよ。
大河ドラマの影響ってこんなトコにまで拡大するんですね……おぉっ、コワッ。
皆さんはどう思いますか?
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ではでは。