2016年07月25日 (月) 01:37
もし誰かが、俺ではない誰かがこの文章を読んでくれていたとしたら、願いだから「松岡正剛」と検索をしてほしい。
検索をして「松岡正剛の千夜一冊」を読んでほしい。
「別に知ってるよ、有名じゃないか」
なんていうのであれば、俺は何も言うことはない。
でももし、この文章を読んでいて、かつ「松岡正剛」を知らないというのであれば、お願いだから「松岡正剛」と検索をしてほしい。
俺がなぜそんな事を書くのか。それは、うん、単純に好きだからだ。
そして俺以外の誰かも俺の好きなものを好きになってほしいからだ。
つまりこれは俺のエゴなので、無理にお願いしたいというわけじゃない。
でも、もし検索をしてくれるなら、俺は嬉しい。
なぜそんな事を俺がここに書くのか。
なぜ俺は松岡正剛を好きなのか。
取り敢えず今日はそれを書き残しておきたい。
俺が松岡正剛を好きな理由は単純なあこがれだ。
何故あこがれるのか?
それは齢七十を超えてなお、日々大量の書を読み、WEBという媒体で感想を残す力強さがあまりに眩しいからだ。
ジャンルにとらわれる事なくあらゆる物に手を伸ばす貪欲さを俺も持ちたいと思うからだ。
誰が見てもわかる明快な筆致に感心し、そのような文章を書けるようになりたいと考えるからだ。
彼の書く文章にはユーモアがある。
彼の書く文章には感情がある。
彼の書く文章には知性がある。
彼の書く文章を読むたび、俺は様々な感情が沸き起こる。
時に感心し、時にうろたえ、時に悲しみ、時に怒り、時に喜ぶのだ。
そしていずれの感情が胸を埋めても、最終的に俺は泣く。
かくありたい目標が、途轍もない距離をいった先にあるとわかるからだ。
彼は自身が書き残した大量のテクストをWEB上に上げている。
そのせいでアラを探す輩も多く、「彼のここの記述にはこういった勘違いがあり、そのような勘違いを蔓延させるような人間は悪だ」と糾弾されている部分もある。
でも、きっと彼はそれを知った上でWEBという媒体を選択して次々に新しい書評を俺たちに見せてくれる。
齢七十を過ぎているのに。
なんて強いんだろう。
なんて気高いんだろう。
なんて美しいんだろう。
書きたい事がどうにも散漫になってしまう。
考えをまとめて文章にする能力が、未だ培われていないからだ。
でも、それだというのに書く事をやめられない。
それはもう俺が書くと決めたからだ。
松岡正剛が1600冊を超える書評を残してるのを見て、どんなに稚拙でも書かねばならぬとわかったからだ。
彼と同じ地平から世界を見るためには、それしかないのだ。
憧れに届くためには、それしかないのだ。
彼は間違いなく俺がどう足掻いても到達できない知の彼方にいる。
でも、俺はそこに行きたい。
俺はもう何もしないでここにいる事だけは辛抱ならないんだ。
彼がいたから、俺は書く。
彼のおげで文章、あるいは言葉に、力が溢れていると知ったから。
もう読むだけでは嫌なのだ。
俺が愛する文章は、俺の中に入ってきて、今行き場を失っている。
俺の手からどこかに飛び出していきたいと言っているのを感じる。
だから願いだから、どうか俺に、文章を書かせてくれ。
俺が読みたいと思う文章を、俺に書かせてくれ。
そのためには俺が頑張るしかないんだ。
どうかめげないでくれ。
俺の脳みそよ、俺の手よ、俺よ。
血の一滴にいたるまで、俺が俺の文章を書くためだけに頑張ってくれ。
俺から出て行こうとする言葉が道に迷わないように。
俺が愛した言葉たちが誰かの心まで届くように、頑張ってくれ。
この文章は松岡正剛に対する愛と、俺の俺に対する願いだ。
文章としてのまとまりは一切ないまま、今日も終わる。