2017年10月30日 (月) 22:55
今は無きアニメ制作会社「manglobe」の「Ergo Proxy」を観終える。
「当初より役割を与えられた人間、ロボット、あるいは神の使いが、自身の感情と経験、取り巻く人間関係を通じて意思決定をして、自身の存在意義を再定義していく」
――要は「自分探し」がテーマ。ディストピア要素もあるにはあるが、本質は登場人物達のアイデンティティーの確立がメイン。
哲学的で難解な作品という評価があるようだが、ハードボイルド調ながらも作中で内容は丁寧に説明、表現はされているので、べらぼうに難しい訳でもなく、ある程度の予想もつけられる。デリダの著書よりかは、遥かに分かり易い。
むしろアニメ作品でいえば「遍在」をテーマに描かれる「Serial experiments lain」だとかの方がよほど難解だと感じた。
海外進出も兼ねて制作されたためか、基本的にシナリオ、戦闘シーン、演出など、かなり抑揚が低く淡々と話が進んでいくし、ヒロインも日本のアニメ特有のデフォルメを抑えバタ臭さがあるが、作りがしっかりしているせいか、続きが気になるスルメ的な魅力は妙。
ラストは、ベタなオチではあるけど、色々考えさせられた。
内容を解釈し間違えてなければ、ネタバレすれば「エルゴ・プラクシー」の世界観における人間は「創造主の使い」が生み出したものなのだが、その「創造主の使い」が不完全であったが為に人間も不完全であり、それ故国家ごと滅んでしまうという。
だが、逆説的にいえばその不完全さが「個体差」を生み、単独では生存は困難であるから共同体を作り、その中で自分以外の「他者」が「自我」を安定、固定化させるアンカーとなり、存在意義やアイデンティティーを会得していく。そして、その自我故に共同体と共に人は滅んでいく。
主人公が「死の代理人」という、ちょい中二病臭い二つ名を名乗るのも、つまりは死という絶対的な限界が、個々の不完全さの肯定であることを意味しているのだろう。(死すら超越すれば、共同体との関わりも無くなり、自我も希薄になるのだろうか)
ニーチェの肯定的ニヒリズムや超人とも少し違う。永劫回帰だとか、繰り返される過ちまでも肯定的に描いているのだと思う。達観しすぎ。
これ、むしろ二次性徴期で色々モヤモヤしているティーンエイジ向けの作品なんだと思う。もう色々凝り固まってるオッサンの俺が見ても「お、そうだな」ぐらいの感慨しか湧かない。
まあ作中のアトモスフィアからして無味乾燥としてソリッドなので、リリカルには至りづらい気もするけど。
あとこの作品、OPが滅茶苦茶カッコイイ。むしろこっちの方が感情表現豊かだ。「MONORAL」が歌う「Kiri」も良い。「君によって僕の運命は成される」という歌詞は、この作品にピッタリだ。誰もが引き込まれるだろう。(多分)
しかも主題歌として、イギリス産メジャーバンド「レディオヘッド」の名曲「PARANOID ANDROID」まで使われていた。リーマンショック以前のアニメって、ゴージャスだったよな。尖ったモンも多いし、アングラな香りがたまらない。
エルゴ・プラクシーは、良くも悪くもクセが強い内容でした。実際、人に勧めやすい内容ではないですね。攻殻の映像作品の方が分かり易いですしエンタメとしても成立してます。
余談ですが、小学生の頃に衛星放送の夏休み特集で押尾監督版の攻殻を観たことがあるのですが、凄い気持ち悪かった印象があります。
攻殻機動隊は、原作漫画版も小説書く上で色々参考になったりします。コマとコマの間にある余白の、膨大な書き込みを読むと「リアリティの徹底と、漫画的表現(ウソや外連味)の配分」にこだわっているのが分かります。
「僕だけがいない街」。おお、三部けい先生の原作ですよね。観てみたいんですが、視聴しないといけないモンがまだ色々あるんですよね……。