2017年11月11日 (土) 17:55
「まったく……散々俺の魔力吸ってるんだから、そろそろ召喚紋をくれてもいい頃なのに……」
アベルはラルク邸の自身に宛がわれていた一室にて、ベッドの上に寝転がっていた。
枕の上にはオーテムが置かれており、その更には黒い靄の球体が座り込んでいる。
つぶらな二つの瞳をアベルに向けるそれは、魔獣の操者、悪魔ハーメルンである。
腕を伸ばし、ハーメルンの腹部を腹で突く。
意外に触り心地のよい感触を味わいながら、アベルは溜め息を吐く。
「召喚紋って、そんなに貰い辛いものなんですか? メアには、よくわからないんですけど……」
その様子を眺めていたドゥーム族の少女、メアが疑問を投げかける。
「ああ、そうだ。召喚紋って言うのは……いわば、あなたを主として認めますってことだからな。悪魔は、人に忠誠を尽す代わりに、魔力の供給を要求する。実は精霊体の塊である悪魔は、魔力の回復が、肉体を持つ魔獣や人間より遥かに遅いんだよ」
「そうだったんですか!? てっきり、悪魔って魔力を扱うスペシャリストみたいに思ってたんですけど……」
「中位以上の悪魔は魔法現象の扱いや、魔力の出力、魔力容量は、人間より遥かに高い。通常の魔術師は大気の精霊へと魔力という対価と経費、魔法陣という設計図、詠唱という命令を出すことで、ようやく魔術を発動させる。その点、悪魔は自身が精霊の集まりだから、その工程を踏まなくてもいい分、発動過程における魔力の消耗も最小限で済むんだよ。例外はあるけどな」
アベルが例外と言ったのは、悪魔でも魔法陣や詠唱を必要とするケースがある、ということである。
悪魔を構成する精霊には偏りがある。そのため悪魔にとっても、詠唱や魔法陣を省いて扱える魔術の種類にも限界があるのだ。
複雑な魔術の行使ともなれば、自身外の大気中の精霊の力を借りなければならないときもある。
中位以上の悪魔が魔法陣や詠唱を経由することは、さほど珍しくはない。
「な、なるほど……わかりますよ」
アベルが解説モードに入ったことを察知し、メアが必死に理解に努める。
アベルは魔術や精霊蘊蓄を話し始めると、とにかく長いのだ。
同じ魔術師相手に話していたときも『わざわざ複雑に言って知識ひけらかしやがって、鬱陶しい』と顔を顰められる程である。
それが原因でロマーヌの街の冒険者支援所では、一部の魔術師達から『捕まると二日潰れる。話が一日中続くのと、翌日に知恵熱で倒れることになるから』と畏れられ、徹底的に避けられていた。
アベルのそのときの哀しげな顔を知っていたので、メアは自分だけでも極力話を聞いてあげたいと考えていた。
「ただ、魔力の自然回復量に限っていえば、悪魔は人間より劣っているんだ。意外かもしれないけどな、精霊体を取り込んで高位の悪魔になればなるほど、燃費は悪くなる。悪魔が力を付けるにつれて上がる、魔力の容量や出力の成長と、回復量の成長の割合の乖離が原因だ」
「わ、わかりますよ。ついていけています。回復量自体も上がっているけど、魔力容量の上昇率の方が高くて、そのせいで高位の悪魔になればなるほど、魔力を使い過ぎると後に尾を引くようになる、ということですね」
「そう! そうそう、そういうこと!」
アベルが嬉しそうに頷くのを見て、メアも笑顔を浮かべた。
相手の話を理解するのには、言葉を換えて言い直すのが一番である。
話を聞いていますよ、理解していますよ、という証明にもなるので、話し手を安心させることにも繋がる。
魔術と縁のなかったメアも、アベルと話す中でその手法を習慣づける様になり、ほんの触り程度であれば、アベルの魔術蘊蓄にも食い下がれる様になっていた。
アベルもメアがしっかりと話を聞いてくれていることを実感しているらしく、興奮気に息撒いて話を続ける。
「魔力の容量と回復量の乖離、その理由には諸説あるところだが、俺が個人的に崇拝している、悪魔学者として名高いウォレスト・ウィンダー博士の言を借りて説明しようと思う。精霊体とは、四次元物質であるという説だ。この三次元界において現れない、もう一つの側面が精霊体には存在するのではないか、という考え方だな」
「え? え? ウォレスト? よ、四次元?」
メアがあたふたとしていると、アベルが寂しそうな色を目に浮かべた。
メアは少し迷った後に、上手く整理できていなかったが、とりあえず誤魔化しておくことにした。
「わ……わかり、ますよ。ウォレストさんで、えっと、アレが四次元なんですよね?」
メアは適当に頭に残っていた単語を繋げてみただけだが、アベルは嬉しそうに口許を綻ばせた。
メアもその表情に釣られて笑う。
「さて、続きを話そうか。この精霊体四次元体説は、精霊体の安定しない重量等、数々の特異性の理由付けとして、四次元軸を精霊体が揺らいでいる様に存在している、という説だ。この法則に則って考える。ウィンダーの理想的精霊体における状態仮定式では、精霊体の質量が……」
引き際を見誤った。
アベルの悪い病気のスイッチが入ってしまった。
メアがそう理解したときは、もう手遅れであった。
こうなったアベルは、相手の知識量などお構いなしに、最低でも後一時間は講釈が続く。
メアが口を開けてあたふたとする前に、魔術講義はどんどんと展開されていく。
終いには、アベルは杖を使い、宙に大量の数式を浮かべて解説を始めた。
アベルが言うには『精霊体四次元体物質説に基づく精霊体の流動的質量変異量の式を、ウォレスト変換と魔術学原則第四式を用いて理想状態の観測不能虚数軸魔力量の式を導き出すことで、ウォレスト・ウィンダーの精霊体四次元体物質説を裏付ける』といったものだった。
メアには何もわからなかった。
呆然とした顔で、大量の数式をひたすら目で追い続けていた。
「メア、何かわからない部分はあるか?」
「あ、あ、ああ……」
どこから手を付けたらいいのかがまずわからなかった。
強いて言えばすべてがわからないが、そんなことを言えるはずもない。
「こ、この辺り……ですかね?」
メアは適当に、式の真ん中あたりを指差した。
アベルが大きく頷いた。
「そうだな、そこの解説が甘かった。その部分は、こっちの式で示している精霊体質量密度が特定条件βの範囲内において定数となると見做した時のものであるということはさっきも解説したことだけど……」
「さ、さっきしましたっけ!?」
「空間反転の際に対称性を取ることを利用し、我らが大賢者、数式の魔術師、ゲルネ・シンムの提唱した結界魔術のアンバー解釈の鏡面式に対応させているんだ」
「解説で知らない単語が増えた!?」
当然、メアはゲルネ・シンムなんて名前は知らない。
メアからしてみれば、我らが大賢者と言われても、勝手に我らに加えないでくれと叫びたくなるだけである。
アンバー解釈も知らない。
鏡面式は似たものをアベルの口から聞いたことがあった気がするが、それと関係あるのかどうかはわからない。
というより、元の式についても理解できていた覚えがない。
もっといえば空間反転が具体的に何なのかもわからない。
……そして、最低時間の想定を当然の如く大きく上回った三時間後、メアはようやく解放されていた。
疲れ果てたメアはベッドの上で横になっていた。
我に返ったアベルは自己嫌悪から壁に向かって三角座りし、項垂れていた。
「悪い、勝手なことばっかり、喋り過ぎた……。なかなか聞いてくれる相手がいないから、禁断症状が出ていたんだ」
「だ、大丈夫です! メアは楽しかったですよ!」
メアは知っていた。
以前、アベルは錬金術師団の仲間ができて魔術の話ができると意気込み、半日ぶっ通しで続けて精霊体の講義を始め、団員からオーテムを投げ付けられて強制終了させられていたことを。
それから人に話すことを諦めたのか、部屋の隅でオーテムに対し、延々と魔術理論について寂しそうに語っていたことも知っていた。
せめて自分だけは聞いてあげたかったのだが、残念ながらメアには、アベルの話を理解するだけの土台が大きく足りていなかった。
アベルが落ち込んで散歩に出かけて行った後、メアは部屋でベッドに座り、アベルの愛読書である魔導書を読んでいた。
メアは小説は好きだったが、残念ながらこの本は難解過ぎて、まったく手が進まない。
『きゅー?』
ハーメルンが、オーテムの中から首を伸ばしてメアを見る。
目線は、メアが読んでいる魔導書へと向けられていた。それからメアを心配する様に見上げ、黒い靄の腕を伸ばして、しゅっしゅっと、シャドーボクシングをする。
まるで『あいつ、一回くらい強く言ってやらないと、わからないよ?』とでも言っている様子であった。
「大丈夫ですよ、メア、アベルが活き活きと話しているときの顔を見るの、凄く好きなんです! それこそ、何時間でも見守っていてあげたくなるくらいに。だから、きっちりと理解してあげたいんですけど……メアには、早すぎるみたいですね」
メアは照れ笑いしながらそう言って、手にしていた魔導書を、そっとベッドの上へと置いた。
『きゅー……』
ハーメルンが、メアを見上げたまま鳴いた。
どこかまだ、引っ掛かっている様な鳴き声だった。
まるで『本人が幸せならそれでいいけど……』とでも言っているようだ。
メアがクスリと笑い、立ち上がる。
扉を開いて通路を見回し、誰も通り掛かっていないのを確認すると静かに閉めて、ハーメルンを笑顔で振り返った。
「それにメア、アベルがメアの事気にしてあたふたしてくれているの見るのも、大好きなんです!」
メアが少しだけ声量を落とし、悪戯っぽく言った。
『きゅうっ!?』
唐突なカミングアウトに、ハーメルンがつぶらな瞳を見開いて瞬かせた。
呆然と口を開いた状態で、ハーメルンの動きが制止する。
「……アベルにはナイショですよ?」
メアが薄い唇に指を当てて言う。
ハーメルンは、こくこくと、二度頷いた。
「あっ! アベルー! メア、本当に気にしてませんからっ! ね?」
メアはアベルを見つけたのか、そのまま扉を開けっ放しにして部屋を飛び出していった。
ハーメルンはしばらくメアの姿を目で追っていたが、フリフリと首を振って、元の表情へと戻す。
それから黒い靄の腕を大きく伸ばし、開けっ放しにされた扉を閉める。
ハーメルンは律儀な性質であった。
『きゅうう……』
まるで『聞いてはいけないものを聞いてしまった』とでも言うかの様に悩まし気に首を振り、ハーメルンはオーテムの中へと身を隠していった。